貴重な蒲原城址出土の「染付玉取獅子紋稜花大皿」と「交趾釉の小皿(緑釉菊花小皿)」
1 染付玉取獅子紋稜花大皿
蒲原城址の昭和63年(1988)度より始まる発掘調査において、標高約140mの本曲輪に付属する空堀底より133片の貿易陶磁(青磁5片・白磁27片・染付101片)が出土した。
そして、それらの中に景徳鎮窯で焼かれたと推定される外径31センチを超える「染付玉取獅子紋稜花大皿」の破片が12片出土した。この染付大皿は、見込の二重円圏内に大小4匹の獅子が配置され、それぞれが玉紐をとる玉取獅子紋様が描かれているもので管見の限りわが国では出土例がない貴重な大皿である。

蒲原城址で出土した染付玉取獅子紋稜花大皿
しかし、海外に目を向けると中東イランのバスタン国立博物館に所蔵されている「旧アルデビルシュラインコレコション」の29,141号(三杉隆敏氏御教示・1990年)は、器形・紋様共ほとんど同じ染付大皿があることが分かる。ただ一つ違うのは、29,141号は裏面高台内の二重円圏内に「万福攸同(まんぷくゆうどう)」という吉祥文字が書かれていることである。そして、三杉隆敏氏は、このシャ・アッパス帝が1611年にアルデビルモスクに献納した染付大皿を16世紀中期に景徳鎮窯で焼かれたものとされている。では、この蒲原城址で出土した染付大皿は、いつごろ焼かれたものかという疑問が生じる。そこで焼造年代を知るための手掛かりである「万福攸同」という吉祥文字を使用している窯が調べてみると、景徳鎮の南にある楽平窯群にある「張家橋窯」が、万福攸同という吉祥文字を使用していることが発掘調査から分かっている。そして、この窯の開窯は、『楽平県志』に「明の嘉靖庚子(嘉靖19・1540年)に、浮梁の擾攘するに因りて、司に奉上して創立す。」とあり、(『中国陶磁通史』1991年p356参照)嘉靖19年庚子の年(和暦天文9年・1540)に張家橋窯で使用されていたことが分かる。よって、蒲原城址より出土した「万福攸同」の吉祥文字のない染付大皿もこの天文9年(1540)前後の焼造と考えられる。そして、海を渡り蒲原城に運ばれて使用されたことになる。そこで、当時の蒲原城に投射してみると、天文13年(1544) 12月26日に連歌師の宗牧が蒲原城の本曲輪での宴に招かれ、自身が著した『東国紀行』の条に「夜にいりて、本城にまかり、中略、原六郎・二俣近江守なと相伴に出られて、又こうたましりに成りて、近江守一さしまハれたれは、さなからうちおろしの大明神のやうなり、これを興にして立たり」とあり、この蒲原城の本曲輪での宴で「染付玉取獅子紋稜花大皿」が使用されたと推察できる。さらに、その宴で二俣近江守と原六郎が使用した思われる染付大皿の破片も、以下に示した遺物写真の口縁部の雷文崩しの2破片から確認でき、この宴で3枚の染付大皿が使用されたことが分かる。そして、蒲原城での出来事と合致する陶磁器片が空堀から出土した貴重な遺物となった。

二俣近江守と原六郎が使用した思われる染付2破片
2 交趾釉の小皿(緑釉菊花小皿)
蒲原城址の平成9年(1998)度の二の曲輪中段の発掘調査において、中国の明代に焼造された「交趾釉の小皿」と言われる外径約6p高さ約1pの稜花形菊花小皿の破片が出土した。この小皿は、土中にあったためか「青緑釉」が剥落し地色の赤紫色が目立つ三彩陶の様相を呈しているもので、7区の地表から約70p下の17層より出土したと報告されている。
そしてこの17層は、厚さが15pから35pの焼土層であり、建物の柱穴を囲むように布設された石列の真下に位置することが土層図からわかる。さらに、二の曲輪において焼土層ができるほどの戦闘があり、その戦いで「交趾釉の小皿」が割れて土中に紛れ込み、その戦いが終わった後に建物を建てるために整地された層であることが分かり、この17層の上に建物が築かれたことが推察される。では、この「交趾釉の小皿」は、いつ誰が持ち込み、誰が石列を布設し建物を築いたかという疑問が生じる。

二の曲輪で出土した「交趾釉の小皿」(稜花形菊花小皿)
ちなみに、蒲原城の歴史に投射してみると、永禄11年(1568)12月14日に後北条氏の援軍として北条新三郎氏信が蒲原城に入城する。そして、翌年の12月6日には武田軍の攻撃により蒲原城が落城し、武田信玄が城の改修のために滞在している。よって、「交趾釉の小皿」は北条新三郎氏信が持ち込み、落城後に武田信玄が入城しているので武田信玄のために建てられた建物である蓋然性が高い。
しかし、北条氏政が、掛川城に逃れていた今川氏真夫妻を救出するために差し向けた船で、永禄12年(1569)5月17日に今川氏真夫妻が蒲原城に入り、閏5月2日ごろのまでの17日間ほど滞在した記事がある。そのため氏真に嫁いでいる「早川殿」の持ち物であり、今川氏真夫妻のために二の曲輪に仮住いを設けた蓋然性が高い。
そこでこの「交趾釉の小皿」は何処で焼かれたか、北条新三郎氏信のものか早川殿のものかという疑問が湧いてくるが、この「交趾釉の小皿」については、栗建安氏が、平成9年(1997)に『野村美術館研究紀要』第6号の「日本茶道中の福建陶瓷」の五 三彩器(交趾三彩)において、交趾三彩は福建省平和窯で焼かれたものと標本を紹介し、平成6年(1994)の平和県南勝花仔楼の発掘調査で「釉の掛かった陶器片が出土した」と記述している。そしてこの釉は、正に蒲原城で出土した「青緑釉が剝がれた交趾釉の小皿」の釉に符合するので、蒲原城で出土した「交趾釉の小皿」は、南勝花仔楼の窯である「万耀山窯」などで焼かれたものと比定できる。
では、どのようにして蒲原城に入ったかについては、相田次郎氏が、昭和3年(1928)に「北条氏分国の唐船着岸の新資料」において、三浦三崎湊に唐船が着岸したことを「岩本坊」宛 己酉(天文十八)七月二十三日付け「北条氏康書状」及びその「副状」を引用して述べている。そして62年後の平成2年(1990)には、岩崎宗純氏が「小田原城北条氏の文化」4
中国文物の請来(『小田原城とその城下』170頁、小田原教育委員会)において,福建の海商である「葉七官」が永禄9年(1566)に三浦三崎湊へ漂着して、陶磁器などを販売し後の唐人町を形成などについて述べている。さらに平成31年(2019)には、英太郎氏は「後北条氏領国への唐船来航と小田原唐人町形成の背景にて」において、葉七官の足跡を永禄9年の陶磁器販売を含めて唐人町形成などを詳述しており、永禄9年(1566)に三浦三崎湊に唐船が漂着し、陶磁器を販売したことは紛れもない事実であると考え、北条新三郎氏信と早川殿の事績に投射してみると、北条新三郎氏信は永禄9年には近傍の小机城主であり、早川殿は既に今川氏真に嫁いで駿府にあり、この陶磁器を購入したのは北条新三郎氏信でその中に「交趾釉の小皿(緑釉稜花小皿)」も含まれていたと推察される。
3 本曲輪堀切と善福寺曲輪から以下に示す日本陶器(瀬戸・瀬戸美濃窯産)の破片が多数出土しています。
1 本曲輪堀切(鉄釉瓶子、灰釉皿、水瓶、稜皿、擂鉢、茶碗)
1)14世紀後半(1350年以降)の編年をもつ灰釉瓶子(骨蔵器と使用されたか)

灰釉瓶子
2)15世紀中頃(1450年頃)の編年をもつ根来型鉄釉瓶子(酒器と使用)堀底直上層より。常滑窯産の大甕の胴部破片。

本曲輪の空堀より出土した根来型鉄釉瓶子
3.瀬戸・美濃窯の大窯T・U期編年をもつ鉄釉稜皿・擂鉢

空堀、善福寺曲輪出土の鉄釉稜皿・擂鉢