放射性炭素(C14)年代測定法

本曲輪の堀切より炭化した角材と板材が出土した。これらを液体シンチレーション法による放射性炭素年代測定法により得た年輪絶対年は、角材が1410±10年、板材が1540〜1630年で、それぞれの材料になる木が切り倒された年代となる。

このことは、それぞれに加工されたものが蒲原城の本曲輪で使用された。そして、前者が本曲輪で炭化された燈明皿片(土師質土器)と中国産染付小杯片が一緒に堀切に投棄され、後者は堀切に投棄された後に炭化した状態で出土している。また、角材は標準偏差値が10年となっているので以下の確率で木が切り倒された年代を特定できる。

 

1.      一標準偏差の67%の確率で 1400年〜1420

2.      二標準偏差の95%の確率で 1390年〜1430

3.      三標準偏差の99%の確率で 1380年〜1440

 

1.放射性炭素(C14)年代測定法による蒲原城址出土炭化物は1410(応永十七)年と1520(永正17)〜1630(寛永7)年本曲輪の堀切より炭化した柵の小柱(ksu-1929)と建築物の板(ksu-1930)が出土した。

これらを液体シンチレーション法によるC14年代測定法によりえた年代は、520年±15年(BP)年輪絶対年は、AD 1410年である。

後者の270年±15年(BP)の年輪絶対年は、AD 15201630年である。と蒲原城址発掘調査報告書第2集(P32)に記されている。

このAD 1410年とAD 15201630年は、それぞれの材料になる木が切り倒された年代であり、それぞれに加工されたものが蒲原城の本曲輪で使用された。そして、前者は本曲輪で炭化され、灯明皿片(土師質土器)と中国産染付小杯片が一緒に堀切底に投棄された。

このことは、蒲原城本曲輪の堀切がAD1410年以前に掘られ、AD1410(応永十七)年以降に蒲原城の本曲輪で何らかの出来事があり、その後に前出報告者のA3グリットに投棄されたことになる。そして、共伴した灯明皿片(土師質土器)と中国産染付小杯片が煤に塗れていることを見ると容易に一括投棄が想定されるが、出土状況をみると各遺物が接合の状態であると断定できない。後者の建物の板がAD1520(永正17)〜1630(寛永7)年の110年の幅の中で蒲原城の本曲輪で板材が炭化され堀切に投棄され、A5グリットの堀切底の付近の法面に貼りつくような状態で出土した。

このことは、蒲原城が廃城となる永禄12年を遡る永正17年迄の50年間に建築物の板が燃えて堀切の法面に貼りついたことになり、蒲原城が落城する永禄12年の武田氏との合戦時の遺物と考えたい。

因みに本試験は、1989年に京都産業大学山田教授にお願いしたものである。

 

2.放射性炭素(C14)年代測定値を校正曲線IntCal09により暦年代を推定するとksu-1929)は、14041435年の32年間に(ksu-1930)は、15271551年の25年間のそれぞれの材料になる木が切り倒された年代であり、それぞれに加工されたものが蒲原城の本曲輪で使用され、堀切に投棄されたことになる。

1990年代に入るとC14年代測定法は、加速器質量分析法(AMS測定)がその精度を高め一般化が進み、それに合わせて校正比較の方法もプログラムソフトとして「CaIib」や「OxcaI」が、Web上で公開され容易に暦年代(実年代)を推定できるようになった。

そこで本文において「IntCaI09」を基本データとして使用した『 OxcaI4.1.5 Bronk Ramsey(2010)』を利用して、柵の小柱(ksu-1929)をKSU‐1929 R_Date52015)建築物の板(ksu-1930)をKSU‐1930 R_Date27015)として暦年代の推定計算を試みた。その結果は次に示す通りであった。

 イ.柵の小柱  95.4% probabiIity 1404(95.4%)1435caIAD

  ロ.建築物の板 95.4% probabiIity 1527(15.0%)1551caIAD 1632(80.4%)1663caIAD

以上の結果からイ.柵の小柱は、95.4%の確率で1404(応永11)1435(永享7)年の間に蒲原城の本曲輪で何らかの出来事があり、その後に前出報告者のA3グリットに投棄されたことになる。

因みに、1404(応永11)年の二年後の応永13年に今川了俊(今川氏兼の兄)が、『言塵集』を今川讃岐入道法世(今川氏兼の嫡子直忠)に与えている。さらに、1435(永享7)年の前年に「去ㇽ九日其城蒲原一揆相囲之處早速退治之殊大将高山玄光由比佐源太被討取之旨到来 後略」の蒲原城の初見である『今川範忠判物』がある。そして、「其城蒲原一揆相囲之處」と一揆が蒲原城を囲む合戦があったことを物語っており、この時の遺物と考えられる。

次に、ロ.建築物の板は、1527(15.0%)1551caIAD1632(80.4%)1663caIADの間に建築物の板が燃えて堀切の法面に貼りついたことになり、蒲原城が落城するのが永禄12年であるため1527(大永7)年〜1551(天文20)年の25年間のことと考えられる。

因みに、1545(天文14)年は、今川氏と後北条氏が争う「河東の乱」のあったころ、今川氏の支城である蒲原城が輪番制になり蒲原城の本曲輪で二俣近江守と原六郎が連歌師宗牧を招いて酒宴を張ったころで、宗牧の「東国紀行」(とうごくきこう)で詳しく記されている。さらに、このときに使用されたと考えられる中国の青花磁器の玉取獅子紋輪花大鉢(推定直径30cm)の破片と同形式の外折れ口縁部2個体の合わせて3大皿が本曲輪堀切より出土している。 文責、2019年一級考古調査士、天野進