駿河国蒲原城への寄稿 蒲原城 小峯砦・大手口・東櫓台 推定縄張図について

本図は、東名高速道路建設によって消滅した小峯砦・大手口・東櫓台を建設当時の地形図が令和610月に発見されたため、蒲原城総合調査報告書(平成19年3月 静岡市教育委員会)に掲載された「蒲原城 小峯砦 推定復元図(試案)」を、新たに東櫓台を加えて推定縄張図として作成したものである。

                                                 2024.12.10 <修正> 関口 宏行

 

 

駿河国蒲原城への寄稿 今川九郎直世の事績による蒲原城史料調査(上)再補稿   

令和2年(2020)考古調査士 天野進

 

蒲原城史料調査(上)補稿(平成15年・2003)に於いて、今川九郎に係る史料と尊卑文脉等の系譜を踏まえ今川氏兼の出生を元徳元年(1329±1年)と定め、今川九郎から始まる事績を武将の子として元服して諱(いみな)を氏兼とし、駿河の「今川蒲原氏」として兄の今川了俊(法名)の九州探題を支え、豊前国では応安七年(文中三・1374)から国大将・守護、日向国に於いては至徳ニ年(元中二・1385)より探題分国守護の事績を残した。そして、応永ニ年(1395)の今川了俊の九州探題解任を機に諱の「氏兼」を「直世」へと改めたとしていた。ところが、この「氏兼」改め「直世」が「直世」改め「氏兼」と逆転することを示す『東福寺文書上58』(以下は「東福寺文書」という。)を東京大学史料編纂所公開データベース(以下は「データベース」という。)より検出した。そして、この東福寺文書には、元服した直世が「東福寺造営の功」として「修理亮」に推挙されていることが記されている。ちなみに、この修理亮は系図等ではみるが確かな史料ではみない官途である。さらにこの東福寺文書は、今川九郎の所領を示す「吉良貞義打渡状(建武五・延元三年・1338)」1から「観応の擾乱(観応2・正平六年・1351)」までの空白の十三年間の事績を明らかにする貴重な文書であることがわかった。そのため、本文においては、この東福寺文書の内容を整理し、拙稿である蒲原城史料調査上2及び蒲原城史料調査(上)補稿3を改めるとともに最新の「今川蒲原氏」について述べるものである。

1高橋文書 二 吉良貞義打渡状『静岡縣史料 第五輯』六百六十五頁 昭和十六年・1941

2研究ノート 三 蒲原城の史料調査(上)『史跡蒲原城址』(駿河国蒲原城址発掘調査概要報告書)蒲原町教育委員会 平成三年

1981

3 URL:蒲原城の史料調査(上)補稿 『駿河国蒲原城』平成十五年(2003http://kanbara30@sakura.ne.jp

 

0 東福寺文書が示す今河九郎直世の事績

この文書は『東福寺文書 上58』と分類された写真帳(昭和381961撮影)の内容をデータベースに掲載したもので原文は「今河九郎直世修理亮事為東福寺造営召功内所挙申也 後略」日付が、貞和三年(正平十九・1347)七月三日とある。そして、この文書と同じ『同 上58』が、足利直義の花押であるので足利直義の官途推挙状であることがわかり、その内容から次のことが明らかになった。

その第一は、今川九郎が建武三年(延元三・1336)十月十一日に吉良満義から「参川國須美保政所職」を預けられ、元服して今河九郎直世または源直世と名乗りおよそ五年後の貞和三年(正平十九・1347)七月三日に、東福寺造営の功として「建武元年(1334)正月四日に東福寺大殿等火く」2の大殿の再建に資する成功(じょうごう=献金)または今河九郎直世が預かる「須美保政所職」か「吉良西條今川一色内田畠」3のいずれかを寄進して従五位下相当の「修理亮」に任じられた。しかし、今河直世や源直世の東福寺への寄進や除目に係る記録は管見の限りない。通常であれば、兄の今川貞世(源貞世として)が康永三年(正平十六・1344)七月に「祇園社神寶の功」で左京亮、従五位下に叙された除目聞書(洞院公賢の日記『園太暦(えんたいりゃく)』151頁)のように今河直世か源直世の名で「東福寺造営の功」により「修理亮」になったであろう。ちなみに、諱(いみな・実名)を直世としている系図は『土佐国蠧簡集残篇』所収の朝比奈永太郎所蔵今川家系図4(以下は「蠧簡集残篇今川家系図」という。)だけでその「直世」の尻付(しづけ)に越後守、弾正弼、修理亮、九郎、三男蒲原居住蒲原先祖とあり、この系図は南北朝期の今川氏の家系図を正確に写した確かな史料であると考えられる。

1高橋文書 一 吉良満義政所職打渡状『静岡縣史料 第五輯』六百六十四頁 昭和十六年・1941

2白石虎月氏著『東福寺誌』二百七十三頁 昭和五十四年復刻

3高橋文書 二 吉良貞義打渡状『静岡縣史料 第五輯』六百六十五頁 昭和十六年・1941

4蠧簡集残篇抄 六 今川家系図 『静岡縣史料』昭和三年・1928

第二として『太平記』巻十四の「節度使下向事(建武三年の事)」に登場する「今河修理亮」を系図等をもとにして今川(蒲原)氏兼に比定する向きがあるが、今河直世(後に氏兼)が十九歳の貞和三年(正平十九・1347)に初官として「修理亮」(しゅりのすけ)を受任しているので今河直世(後に氏兼)ではない。では、この今河修理亮は、いったい誰であろうか。それは、建武三年(延元三・1336に矢作川を挟んで行われた合戦があり、その合戦の軍忠状に

馳せ参じ三州矢作河、属干足利上総五郎入道殿御手、致合戦

という内容の「高橋茂宗軍忠状写」(多田院文書)がありこの「足利上総五郎入道」に比定でき、今川氏の本家筋の姓である足利姓を名乗っている人物で上総五郎入道である。すなわち、今川了俊が応永九年に著した『難太平記』の「今川庄」の条に

今川庄をば、佐馬入道の御時より長氏の少年の御時装束料給ひしを、吉良荘惣領可為進退と沙汰ありし故、基氏不会になり給ひし

にゃ、故殿の御代に貞観上総入道(吉良貞義)合体有りて父子の契約より、違乱止き 後略

とあり、故殿貞観上総入道(吉良貞義)の養子になり父の官途である上総介を継ぎ上総五郎入道となったことがわかる。そして、この故殿とは、著者である今川了俊の父親であり「今川範国」に比定できる。この今川範国は、嘉暦二年(1326)三月の「先代(北条高時)の時一天下出家しける時廿三」で出家(『難太平記』)するとあり、廿三歳で五郎入道(川添昭二氏著『今川了俊』十二頁 昭和三十九年・1964)となるので上総五郎入道に符合する。よって今河修理亮は、今川九郎の父親である今川範国であることわかる。ちなみに、足利氏族の今川氏が、本姓を名乗るのは上記の合戦のころからとされている。確かな史料としては、元弘三年(1333)九月九日の今河五郎入道1になる。

1鴨江寺文書三 沙弥某外一各連著綸旨施行状『静岡縣史料』第五輯 七百一頁 昭和十六年・1941

 第三は、今川範国の初官である「修理亮」である。尊卑文脉等の系譜によると今川範国の官途は無冠と記されている。先代(北条高時の出家:嘉暦元年・1326)にならって出家したのが廿三歳1であるためであろうか。いや、前述したように「修理亮」をすでに建武政権時には任じられていた。では、嘉元二年(1304)生まれの今川範国がいつ頃「修理亮」に任じられただろうか。嫡子の五郎範氏は中務大夫、六郎貞世は康永三年(正平十六・1343)の十九歳で左京亮、九郎直世(後の氏兼)が貞和三年(正平十九・1347)の十九歳で修理亮を受任、範氏の受任は不明であるが、先の二人が十九歳であるのでそのころに任じられた蓋然性はある。それならば、今川範国の十九歳は元享三年(1323)になり、今川基氏の室(香雲院)が、範国を武門の棟梁として育てる(『難太平記』)教育の第一歩である官途受任時期になる。因みに、今川基氏の没年2が元享三年(1323)とされているのでこれより前に官途「修理亮」を受任したと考えられる。

1 今川了俊著『難太平記』応永九年(1402)二月

2『寛政重修諸家譜』九十四 清和源氏今川

第四に、東福寺文書に記されている「東福寺造営の功」を成功(じょうごう)でなく、今川九郎が建武五年(1338・興国三年)四月七日に吉良貞義から宛行われた「参河國吉良西條今川一色内元今川次郎(常国)入道跡田畠今者今川五郎入道跡」の田畠を貞和三年(1347・正平二年)三月に召されて東福寺に寄進したとすると、兄の今川了俊は、禅の師である一峯明一(仏海禅師)が九条道教より三河実相寺の住持から東福寺住持に移る招請を康応四年(興国二年・13412から受けた以降から今河九郎直世が、今河・一色の地を寄進した貞和三年(1347・正平二年)三月以前に、師が住持を務める東福寺塔頭正法院に「今川氏の七世父母の菩提をともらう料」(『難太平記』)として、職の分割3があった今川庄の政所職等を合わせて寄進したことになる。

ちなみに、一峯明一(仏海禅師)は、貞和五年(1349)九月二十三日には没してしまうので今川九郎直世が寄進した貞和三年(1347・正平二年)三月に限りなく近い時期に今川了俊は、今川庄を寄進したことになる。

1高橋文書 二 吉良貞義打渡状『静岡縣史料 第五輯』六百六十五頁 昭和十六年・1941

2『愛知県史料 通史中世』 七百一頁 同史料 資料編 八百八十八・九号

3新井紀一氏出筆『講座日本荘園史』東北・関東・東海地方の荘園(「三河国・吉良荘」 三百二十九頁)

 

1 今川九郎の先祖と川端の人々

今川九郎の先祖については、兄の今川了俊が著した『難太平記』の二条に「我等が先祖事ハ義氏の御子に長氏上総介より吉良とハ申也。其子に満氏の弟に国氏と云しより今川とは申也」と端的に述べている。また、南北朝時代に編まれたとされる尊卑文脉も「国氏」としている。そして、国氏の子を基氏としたときの川端の人を『同記』十二条では「経国、俊氏など云いし人々はみな基氏の御舎弟等也、今関口、入野、木田の人々の祖父と云也」と記され、尊卑分脉では太郎基氏、次郎常氏、三郎俊氏、四郎政氏、五郎経国(尻付に次郎常氏同人)、六郎親氏の五人で六人兄弟となっている。従って五郎経国が、次郎常氏の改名と考えられるので五郎の諱は不詳となり、新たな諱の今川氏の存在が想定される。そこで、今川氏の先祖国氏より始まる事績を整理すると

@    大喜法忻(仏満禅師)の親が今川基氏1

A    常国が後に経国と改名する。その子に三郎顕氏・四郎貞國の連署施行状、備後の國大将、三郎が相談今河三郎と引用(足利尊氏軍勢催促状)、弟に僧、東福寺玄基其の子に助時(蔵人大夫)

B    三郎俊氏の子、新野俊國を号し、子に養子(今川了俊の子)満範を迎える

C    四郎政氏が四郎入道として筑後に、その子政義が因島で請文(足利尊氏の)

D    五郎不詳の子に、足利直冬の股肱の臣である今河五郎直貞がある

E    六郎親氏を六郎入道として、子の六郎とともに肥前で活躍するなどがある。

以上を纏めると次に示す今川家系図になる。

 

   今川家系図

先祖 四郎国氏 ⇒ 〇 太郎基氏       ⇒  〇 五郎範国

)1『愛知県史 資料編中世8』「延宝伝燈録」巻二十五 相州建長大喜法忻禅師、源基氏(今川基氏)子、参州人也

          〇 次郎常国(後に経国)  ⇒  〇 三郎顕氏1,2

                        ⇒  〇 四郎貞國1

                        ⇒  〇 僧 玄基(住東福寺)  ⇒  〇助時(蔵人大夫3

註)1『広島県史 中世資料W』浄土寺文書今川貞國・顕氏連署施行状 浄土寺雑掌 中略建武三年(延元元・1336)三月四日 源貞國顕氏

2小松茂美氏著『足利尊氏文書の研究』平成9年1997「田総家文書」足利尊氏軍勢催促状 相談今河三郎可致軍忠也 建武三年(延元元・1336)二月十九日

3 瀬野精一郎氏編『南北朝遺文九州編』63号 肥後小代文書「一色道獣書下」菊池武敏以下凶徒等蜂起之由有其聞、属今河蔵人大夫也 建武三年(延元元年・1336)六月十七日

          〇 三郎俊氏(子が新野) ⇒  〇 新野俊國(了俊の子養子)⇒  〇  満範(兵部大輔)1

川添昭二氏著「南九州経営における九州探題今川了俊の代官」『舊記雑録』付録昭和63年1月 禰寝文書 野辺盛久書状「大将

(今川満範)去二日ニ求摩に御着陣候御名字者今河新野殿と申也」

          〇 四郎政氏(四郎入道1  ⇒  〇 太郎政義2

                          ⇒  〇 七郎長義

  1瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』575号「筑後大友文書」足利直義軍勢催促状案(前略 相催一族、属今川四郎入道手 建武三年(延元元年・1336)四月十三日)

  2『兵庫県史料 中世2711頁「若王子神社文書六」今川政義請文 貞和弐年(正平元年・1346)九月三日 源政義

           〇 五郎不詳(後に不詳) ⇒  〇 五郎直貞12

  1川添昭二氏著「足利直冬の発給文書 後略」『九州史研究』所収 詫間文書(今河五郎直貞所差遣也、貞和六年(正平五年・1350)二月七日)

   2松岡久人氏編『南北朝遺文 中国・四国編』2625号三刀屋文書(足利直冬軍勢催促状寫 前略 凶徒退治事、所差遣今河刑部大輔直貞也、正平九年(文和三年・1354)七月十九日)

          〇 六郎親氏 (六郎入道1 ⇒  〇 六郎経頼24 六郎掃部助35

1瀬野精一郎氏編『南北朝遺文』九州編6983号 肥前福田文書 一色道獣軍勢催促状寫(前略 為誅伐、所差遣今河六郎入道

 建武四年(延元二年・1337)九月廿六日)

2瀬野精一郎氏編『南北朝遺文』九州編1595号 肥前武雄神社文書 一色道獣感状(前略 於筑後国赤目、差遣今河六郎 暦應三

年(興国元年・1340)十一月五日)、川添昭二氏が、萩原三七彦氏著「春日社と成功」(『日本歴史』464号を受けて今河

郎掃部助経頼に比定している(磐田市史、中世、2 九州における今川氏一門・家臣団 五百三十五頁)。

3萩原三七彦氏著「春日社と成功」(『日本歴史』464号 昭和621987)「春日社社務中臣祐光請文」(一通今河

郎掃部助所望事同之)康永二年(興国四年・1343

4瀬野精一郎氏編『南北朝遺文』九州編2552号 肥前有浦文書 今川経頼副状(肥前國佐志見留加志浦内 中略 貞和四年(正平

三年1348)十一月四日 経頼 花押)

5瀬野精一郎氏編『南北朝遺文』九州編3304号 肥前竜造寺文書 龍造寺家政申状案(前略 召放一色殿御代無道 依被預置今河

掃部助殿 観應ニ秊(正平六年・1351)十二月日)

 

2 今川九郎を取り巻く今川範国(駿河今川氏)の事績について

今川九郎が「中先代(北条時行)の乱」で亡くなったと思われる今川氏の跡である「参川國須美保政所職」建武三年(延元三・1336)十月十一日に吉良満義から預けられ、その須美保の館へ移り住んで二年の後、父親の今川範国は、兄の貞世を伴って駿河国の駿河浅間社へ参拝2したのが建武五年で、その年の四月七日に今川九郎は、吉良貞義から参河國吉良西條今川一色内元今川次郎(常国)入道跡田畠今者今川五郎入道跡3の田畠を宛行われた。時に九歳であった。そして、この田畠は父親である今川五郎範国(今者五郎入道)が、今川次郎常國(元今川次郎入道跡)より相続したものであるが、吉良貞義が今川九郎へ預けるという複雑な今川庄の相続を示している。すなわち、今川了俊が著した『難太平記』の「今川庄」の件で

今川庄をば、佐馬入道の御時より長氏の少年の御時装束料給ひしを、吉良荘惣領可為進退と沙汰ありし故、基氏不会になり給ひし

にゃ故殿の御代に貞観上総入道(吉良貞義)合体有りて父子の契約より、違乱止き、了俊ゆづり得間相続也 後略

とあり、本来ならこの田畠は、今川家の惣領である長男の「基氏」が相続するはずであるが、次男の「常氏」である次郎入道が相続している。このことは、基氏の父である「国氏」が弘安三年(1283)に没した4とき、吉良本家の惣領の「満氏」が「吉良荘惣領可為進退と沙汰ありし」としたため、国氏及び満氏の父親である「長氏」が次郎に相続させ、その場をしのいだ。

ところが、二年後の弘安五年(1285)に鎌倉で起きた「霜月騒動」で惣領の満氏が討死してしまい、吉良本家の惣領が一時不在になり、争いは続き「基氏」が没した元享三年(13235ごろ、吉良本家の惣領を継いでいた「貞義」が違乱と沙汰したため、吉良家の庶流である今川家の惣領の範国が、貞義の養子となることで争いがなくなる。そして、今川範国が、建武新政権で目覚ましい働きをして元弘三年(1333)には遠江守護、建武四年十月には駿河国で国宣を出すまでになるが、吉良貞義は、建武五年四月七日に吉良本家の惣領の権限で今川範国の本貫地である今川庄と一色庄の田畠と政所識を分離し6、田畠の打渡状を今川九郎に預けた。因みに政所識は、「了俊ゆづり得間相続也」(『難太平記』)とあるように兄の今川了俊に相続された。

1高橋文書 一 吉良満義政所職打渡状『静岡縣史料 第五輯』六百六十四頁 昭和十六年・1941

2 今川了俊著『難太平記』応永八年二月

3高橋文書 二 吉良貞義打渡状『静岡縣史料 第五輯』六百六十五頁 昭和十六年・1941

4『尊卑文脉』清和源氏 今川

5『寛政重修諸家譜』巻第九十四 清和源氏 今川氏

6新井紀一氏出筆『講座日本荘園史』東北・関東・東海地方の荘園(「三河国・吉良荘」 三百二十九頁)

 

3 今川九郎直世から氏兼を名乗る時期について

今川の九郎から元服して氏兼になったことを『史跡蒲原城址』の研究ノートやその補稿において何も疑わなかった。そのようななか東福寺文書の「今河九郎直世」の出現は、九郎が今川・一色の地を吉良貞義より預かった建武五年以降の事績にまったく新たなの展開が想定される。すなわち、この今川九郎の出生を元徳元年(1329)、十三歳の康応四年(興国二年・1341)ごろに元服して今川九郎直世と名乗り、六年後の貞和三年(正平二年・1347)に「修理亮」を受任する。初めての任官で武将としての事績ある。そして、次に現れる事績は『足利尊氏奉納松尾社法楽和歌』3の巻末にある観応二年(正平六年・1351)十月十八日付松尾権神主宛の『今川氏兼書状』である。この書状は足利尊氏が近江国醍醐寺の陣中で霊夢をみて、観応二年(正平六年・1351)九月十八日に「神祇」題で側近とともに和歌を詠み、その懐紙を一巻に仕立てて京都の松尾社に奉納したものの巻末にあるもので東文書4として伝えられている。しかしこの今川氏兼書状の諱と花押は貞治二年(正平十八年・1363の六波羅蜜寺への奉加状5、すなわち卯月十日の奉加帳に「奉加 馬一匹 弾正少弼氏兼 花押」とあるものと違い、諱は氏兼でなく氏重と思われる。また、東京大学史料編纂所所蔵の『東文書』(影写本)の調査員はその諱のわきに「氏重ナラン6と記している。そして花押は、氏兼の花押に比べると線が細く、文和四年(正平十一年・1355)の越前島津家文書の『足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状』7の劈頭にある「ふくのへ氏重」の花押と一致するので今川氏兼ではない。ちなみに、氏兼の花押と一致する花押は関西学院大学図書館所蔵「越後守奉書」8の花押である。従って弾正少弼氏兼と越後守は同一人であることがわかる。さらに氏兼という諱と花押は、茨木県水戸市に所在する六地蔵寺が所蔵する「修理亮氏兼寄進状」9がある。この寄進状は、修理亮氏兼が、貞治三年(正平十九年・1364に「了癒大師」の菩提所である安楽寺に土地を寄進したもので、日下に修理亮、名を氏兼、その下に太筆のどっしりとした花押が据えられている。しかし、この花押は下部が全体の四分の一ほど欠けているもので「弾正少弼氏兼や越後守」の花押と比定できない。だが、寄進状の裏書と花押が在地勢力10のものと確認できるのでその可能性は残るが、直世から氏兼への改名は、六波羅蜜寺の奉加帳にある弾正少弼氏兼の貞治二年1363・正平十八年)が下限で上限は、『東文書』が伝える観応の擾乱の観応二年(1351=正平六年)ごろと考えられる。

1研究ノート 三 蒲原城の史料調査(上)『史跡蒲原城址』(駿河国蒲原城址発掘調査概要報告書)蒲原町教育委員会 平成三年

1981

2 URL:蒲原城の史料調査(上)補稿『駿河国蒲原城』平成十五年(2003http://kanbara30sakura.ne.jp

3横内裕人氏著『口絵解説足利尊氏奉納松尾社法楽和歌』古文書研究/日本古文書学会編

4『東文書』大日本史料六之十五

5弾正少弼氏兼奉加状『六波羅蜜寺文書』

6『東文書』(影写本)東京大学史料編纂所所蔵

7足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状『越前島津家文書』国立歴史民俗博物館所蔵

8越後守奉書『関西学院大学図書館所蔵文書』同大図書館が所蔵する

9修理亮氏兼寄進状『六地蔵寺文書』六地蔵寺が所蔵する

10大掾高幹『花押かがみ』3890東京大学史料編纂所編

 

4 今川(蒲原)直世(氏兼)の官途受領名について

今川範国とその室「普賢院明山性昭尼」(法名)の間に生まれた九郎は、今川庄で育ち建武三年(延元元・1336)の八歳ごろには須美の保が形成されたときの中心にある館(須美字牛ノ松の中世集落地)1に居を移し、武門の子として育てられ元服して「直世」と名乗り、京都にある父親の今川範国の館に移り、貞和三年(正平二・1347)には「修理亮」に任じられ、駿河に移り今川の蒲原氏、後に九州に下向して肥前蒲原氏の発生をみる。そして、観応の擾乱(1351)の前後に「弾正少弼」に任官、貞治二年(正平十八・1363)には足利義詮が勧進する六波羅蜜寺へ奉加に出向き、馬一匹を弾正少弼氏兼2の名で納める。

貞治三年(正平十九・1364)ごろには『一万首和歌』3の詠み人の名に源氏兼、受領名を今川越後守と添えられている。

また、今川範国が引付当人であるとき「越後守」4の名で遠江国原田荘に係る書下しを守護の今川範国の代理で貞治三年(正平十九・1364)十月九日付けで発している。貞治六年(正平二十二・1367)に二代将軍足利義詮が没すると、兄の貞世がそれに列なって出家して「了俊」と名乗り、氏兼も出家して応安二年(正平二十四・1369)に遠江国浜松庄内島郷の四分の一地頭職を「今川少弼入道」5の名で吉良満貞から預けられる。応安三年(建徳元・1370)には兄の了俊が九州探題への命を受け西下、氏兼も探題了俊を支え、応安四年(建徳二・1371)十二月には「少弼殿」6として肥前国潮田を通り二十三日に武雄山、二十七日には塚崎牟留井城、正月十三日に烏帽子岳、五年(建徳三・1372)二月二十三日凶徒寄せ来る合戦、長嶋庄を立ち、多久、蜷手、四月二十八日から佐野、八月十二日には大宰府陥落に関与する。

応安六年(文中二・1373)四月八日に肥前の「所隈の陣」が危なくなったので、探題今川了俊の命により「弾正少弼」7として毛利元春、田原氏能、長井貞廣等を率いて兵糧を今川軍の陣に入れ今川仲秋の軍を援ける。

応安七年(文中三・1374)正月に豊前国の高畑城で城井常陸前司入道が挙兵(宮方として)した。そのため探題今川了俊は、氏兼を大将(弾正少弼)8として発向させ、豊前の門司聖親や豊後の田原氏能・竹田氏・広瀬氏及び備後の長井氏に援けさせこれを攻め、野伏合戦の日々を送り、九月二十五日にはこれを陥落させた。その後、探題了俊がいる八町島の今川軍に合流した。そして、十月ごろ南朝軍が「高良山の陣」をといて肥後国の菊池へ引いたので今川軍と共に「水島の陣」に出向き、今川了俊の少弐冬資誘殺で劣勢になり永和元年(天授元・1375年)九月八日に敗退して、豊前国の野中郷司の城に「弾正少弼」9として入る。十二月には大内義弘が、家人三百人と渡海して豊後に入り吉弘氏輔と共に野中郷司の城にいる「弾正少弼」10と合流する。

幕府は、永和二年(天授二・1376)八月に探題今川了俊の要請に応じて大隅・薩摩守護を解任して探題了俊の兼帯と将軍義満の弟の満詮の九州下向予定を有効に利用して渋谷・和泉等を味方にした。また大隅・薩摩の南軍攻略に有効な日向地方の地盤固めに探題今川了俊の弟の氏兼(今川越後守11に日向国人の指揮支配を命ずる足利義満御内書(将軍義満からの書状)が八月三日に下される。しかし、この計画は、大友氏と吉川氏のそれぞれの家の内訌により足利満詮の下向ができず、永和二年(天授二・1376)八月四日に将軍義満から今川伊与入道宛ての御判御教書

  若君九州進発事、不可有子細、先遠江・駿河・備後・安芸地頭御家人等、不日可発行旨、後略

をもって頓挫するが、探題今川了俊は氏兼(今川越後守)の下に肝付氏を配置して日向での地盤固めを援けた。

ちなみに、氏兼は、成恒文書の永和三年(天授三年・1377)相良前頼代成恒種仲申文に「九月九日探題御内書并応安八年(天授元・1375)正月廿六日其時之守護「霜台(唐名)」(弾正台)御遵行」、同年五月二十二日には豊前国篠崎庄の下地を石清水八幡宮社家雑掌沙汰渡せしむ施行状を探題今川了俊から弾正少弼の宛名で受けている。

なお、到津文書の応永五年(1398)閏四月宇佐宮神官等申状に「先年今河霜台当国守護識之時分」とあって、応安八年(天授元・1375)当初すでに「豊前守護」と目されている。

永和四年(天授四・1378)三月には南軍の「隈本城」に対する「藤崎城」の守備兵の一部が、菊池と「なり合い」藤崎城を攻撃してきたので「礼部」、「霜臺」、「大内介」の出陣の供をしてという「甲斐守経房・虎熊丸代市原経顕軍忠状」12があり氏兼の事績が確認される。そして、九月十八日に藤崎に陣取った今川軍は、菊池武朝と「詫間原」で戦い敗れ戦線を後退させる。

氏兼は、翌年の永和五年(天授五・1379)四月二日に「越後守」13として、筑後国で三潴庄八院村庄方事に係る書下を、在地の矢野新左衛門入道に発している。そして、同年同月十日付の沙弥道俊の「御披露候」という請文14があり、越後守は、一通しか確認できないが「筑後守護」級の書下を発している。また、同年六月になると今川軍は、再び進攻をはじめ二年後の永徳元年(弘和元・1381)六月には菊池氏の本拠肥後隈部城、および良成親王の拠所染土城を攻めてこれを陥落させた。

そして、永徳二年(弘和二・1382)正月二十二日には、大宰府天満宮安楽寺で張行された連歌の「今川了俊一座千句、第五百韻の一巻」15に氏兼親子、すなわち、句上げに見られる「直忠」の名が抬頭書きされ「了俊」の次に記され、氏兼の名がなくこのころになると今川蒲原一族の家督が氏兼から直忠に移っていることがわかる。なお、氏兼は「直藤」「直助」「直輔」の名で四句詠んでいる。しかし「直藤」は長瀬尾張守(直藤・守護代)16の可能性がある。

氏兼は、至徳二年(1385)になると今川了俊の書状に「日向守護の大友親世が、伊東・土持氏が従わないため日向守護を上表した。そのため、探題今川了俊が日向守護を兼補、日州の事は弾正少弼に任せてある。近日中に入部する」17とある。そして、この下向を示すものとして『日向記』巻三に犬追物手組之日記があり、至徳元年(元中元・1384)十月七日と応永五年(1398)二月十九日の間に行われた犬追物の日記に

「先年治部大輔上洛以後者、當國の兵亂會て止事なかりしかは、日州の探題として今河播磨守、嘉慶元年丁卵(1387)六月下

向、三年目康應元年己巳(1389)十一月十七日 犬追物手組之日記 御大将 廿四匹 平郡亀薬刄 六匹 中略 検見横地美作入道 斯て九年在留、応永二年乙1395)十月比より、日向國人等今河を令違背者共多かりけり、然共明る丙子年(応永三・1396)迄在國、六月穆佐高城を開き歸り登り玉ふ也」

とあり、日向の戦況が犬追物手組之日記を通して明らかになる。そして、実際に日州に下向したのは弾正少弼(氏兼)ではなく今河播磨守であった。この今河播磨守は、弾正少弼(氏兼)の嫡男で日向国で活動している「直忠」と考えられる。そしてこれを支える史料として直忠書状が伊東文書に三通と入来院家文書18に一通ある。さらに、この入来院家文書の直忠書状は、正文で日下にある直忠の下方に据えられた花押は、後の応永四年(1396)九月三日の尾張守護今川法珎の書状の花押と一致するので同一人であることがわかる。この直忠と今川法珎については補稿で述べているのでしているのでここでは言及しない。また、至徳四年(1387)には今河霜台は、日向大光寺で尊堂の『十三回忌』すなわち、十二年前の応安八・永和元年乙卵(1364)の「水島の陣」で没したと思われる人物(尊堂)の十三回忌を営むという。そして、その『十三回忌拈香』の中に「日州隅州薩州路三国一統之上相孝男源朝臣某、後略」とあり、供養の対象が「源朝臣某」で戒名や人となりが分からない尊堂の法事19であった。康應元年(元中元・1389)三月、氏兼は将軍足利義満の厳島参詣の供をした。その時の随行者の中に出家した「今川越後入道」がいたことを兄の今川了俊が『鹿苑院殿厳島詣記』に著している。これにより氏兼は、康應元年(元中元・1389)三月が下限で、永和五年(天授五・1379)四月二日に「越後守」が、筑後国で三潴庄八院村庄方事に係る書下に発するまでを上限とした約十年の間に出家したことになる。

また、将軍義満の厳島参詣の意図は、中国の状況を親しく視察し、九州に渡って、了俊の九州経営のを強力に推進することであったと思われるが、厳島神社参拝の後に荒天が続き視察が取りやめになって「岩やど」という浦の浦端の田嶋という海人の家にいる将軍義満に「今川越後入道」20が、急用で筑紫へ帰るために拝謁に訪れ、将軍から「御はかし」(太刀)などを拝領したことを『鹿苑院殿厳島詣記』に記されている。時に六十一歳であった。そして、その後の氏兼は、応永二年(1395)の今川了俊の九州探題解任に伴い八月下旬には舟で帰京したと思われる。時に六十七歳であった。

 

1 川井啓介氏著「三河地域の中世集落—室遺跡再考(平成三年度発掘調査)—」五十六頁

2 弾正少弼氏兼奉加状『六波羅蜜寺文書』

3井上宗雄氏著『中世歌壇史の研究・南北朝』六百七頁

4越後守奉書『関西学院大学図書館所蔵文書』同大図書館が所蔵する。

5高橋文書 三 吉良満貞打渡状『静岡縣史料第五輯』六百六十五頁 昭和十六年・1941

6瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』5170号 肥前姉川文書(式見若狭権守兼網申軍忠状)外 

7瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』5112号 毛利家文書(毛利右馬頭元春軍忠次第)外

8瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』5231

9瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』5266

10瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』5266号 

11足利義満御内書案『禰寝文書』・瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』6570号 

12瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』54855486号 

13瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』5530号 

14瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』5832号 

15伊地知鐵男氏著「今川了俊一座千句等・第五百韻の一巻」(『連歌俳諧研究』五十二号、1977

16佐藤進一氏著『室町幕府守護制度の研究 下 南北朝諸国守護沿革考証編』永徳三年三月廿七日に筑後守護代(直籐)充の沙弥

(了俊)書下状がある(大宰府天満宮文書)。

17今川了俊書状『禰寝文書』・瀬野精一郎氏編『南北朝遺文 九州編』補遺7124

18川添昭二氏著『舊記雑録』付録昭和63年1月「南九州経営における九州探題今川了俊の代官」入来院家文書(直忠書状 正月廿

五日渋谷左馬助(重光)宛)

19山口隼正氏著『南北朝遺文』九州編第五巻付録昭和639月「日向・薩摩と今川氏兼・貞継−探題今川氏九州支配末期の一こま

  ―」

20今川了俊著『鹿苑院殿厳島詣記』暦応元年三月 「十七日は是にとどまらせ玉ひぬ。今河越後入道は是よりまかり申て。かちじよ

りつくしに下りしかば。御はかしなど給りて。後略」

 

5 今川(蒲原)直世(氏兼)の九州探題における官途受領名(少弼・弾正少弼・霜台・豊前及び筑後守護)について

応安三年(建徳元・1370)、兄の了俊が九州探題への命を受け西下、氏兼も了俊を支え応安四年(建徳二・1371)十二月には「少弼殿として肥前国潮田を通り二十三日に武雄山、二十七日には塚崎牟留井城、正月十三日に烏帽子岳、五年(建徳三・1372)二月二十三日凶徒寄せ来る合戦、長嶋庄を立ち、多久、蜷手、四月二十八日から佐野、八月十二日には大宰府陥落に関与する。そして、探題今川了俊は、応安六年(1373・文中二年)四月八日に肥前「所隈の陣」が危なくなったので「弾正少弼2を毛利元春、田原氏能、長井貞廣等に援けさせ、兵糧を入れて今川仲秋の軍を援ける。

応安七年(文中三・1374)正月に豊前国の高畑城で城井常陸前司入道が挙兵(宮方として)したため探題今川了俊は、氏兼を大将(弾正少弼3として発向させ、豊前の門司聖親や豊後の田原氏能・竹田氏・広瀬氏及び備後の長井氏に援けさせこれを攻め、野伏合戦の日々を送り、九月二十五日にはこれを陥落させ、その後に了俊がいる八町島の今川軍に合流した。

そして、十月ごろ南朝軍が高良山の陣をといて肥後国の菊池へ引いたので今川軍と共に肥後の「水島の陣」に出向き、探題今川了俊の少弐冬資誘殺の影響で戦線を後退させ永和元年(天授元・1375)九月八日には筑後川を越えて敗退した。氏兼は、豊前国の野中郷司の城に「弾正少弼4として入る。さらに、その年の十二月には、大内義弘が、家人三百人と渡海して豊後に入り吉弘氏輔と共に豊前国の野中郷司の城にいる「弾正少弼5と合流する。

幕府は、永和二年(天授二・1376)八月に探題今川了俊の要請に応じて大隅・薩摩守護を解任して探題了俊の兼帯と将軍義満の弟の満詮の九州下向予定を有効に利用して渋谷・和泉等を味方にした。また大隅・薩摩の南軍攻略に有効な日向地方の地盤固めに探題今川了俊の弟の氏兼(今川越後守11に日向国人の指揮支配を命ずる足利義満御内書(将軍義満からの書状)が八月三日に下される。しかし、この計画は、大友氏と吉川氏のそれぞれの家の内訌により足利満詮の下向ができず、永和二年(天授二・1376)八月四日に将軍義満から今川伊与入道宛ての御判御教書

  若君九州進発事、不可有子細、先遠江・駿河・備後・安芸地頭御家人等、不日可発行旨、後略

をもって頓挫するが、探題今川了俊は氏兼(今川越後守)の下に肝付氏を配置して日向での地盤固めを援けた。

ちなみに、永和元年(天授元・1375)八月二十八日付の島津氏久宛の「越後守」官途推挙状を探題今川了俊が発しているが、永和二年(天授二・1376)八月四日付の足利義満御教書に島津上総介・同「越後守(氏久)」治罰事という今川伊予入道宛の案文があるのでこの越後守は島津氏久でないことは確かである。

氏兼は、成恒文書の永和三年(天授三年・1377)相良前頼代成恒種仲申文に「九月九日探題御内書并応安八年(天授元・1375)正月廿六日其時之守護「霜台(唐名)」(弾正台)御遵行」、同年五月二十二日には豊前国篠崎庄の下地を石清水八幡宮社家雑掌沙汰渡せしむ施行状を探題今川了俊から「弾正少弼」の宛名で受けている。

なお、到津文書の応永五年(1398)閏四月宇佐宮神官等申状に「先年今河霜台当国守護識之時分」とあって、応安八年(天授元・1375)当初すでに「豊前守護」と目されている。

 氏兼は、永和四年(天授四・1378)三月二十五日の肥後国の「藤崎城」の警護のために「霜台」として禮部、大内介と共に出向き、同年九月十五日に藤崎城に在陣、同月二十九日今川軍は、菊池軍と「詫磨原」で戦い、敗れ、いったん退却する。

しかし、氏兼は、探題今川了俊が再び肥後に下向した永和三年(天授三・1377)以降で永和五年(天授五・1379)に筑後国で三潴庄八院村庄方事に係る書下を「越後守」として発給する前の、肥後の菊池氏攻略の目途が立つまでの間に「筑後守護」に補任され、筑後国に下り、三潴庄八院村庄方事に係る書下を発給したと推定される。そして、至徳二年(文中二・1385)二月十八日の探題今川了俊の

「日州のことは弾正少弼に任せてある近日中に入部する」

と『禰寝文書』にあるように「弾正少弼」が確認される。しかし、氏兼の日向国への入部は、南朝軍の攻勢により至徳四年(嘉慶元・1387)以降、霜台が、日向国の大光寺で「尊堂(具体的には不明人な人物)」の十三回忌の仏事を催すことを示す「今河某十三回忌拈香(内容略)」があり、了俊―氏兼の日向支配期に符合して、興味深い。(山口隼正氏1988年)

また、氏兼は「水島の陣」の退却の半年後の永和五年(天授五・1379)四月二日には「越後守」として、筑後国で三潴庄八院村庄方事に係る書下を在地の矢野新左衛門入道に発している。そして、同年同月十日付の沙弥道俊の「御披露候」という請文があり、越後守は、一通しか確認できないが「筑後守護」としての書下を発している。なお、筑後守護は、氏兼の日向入部以降の至徳四年には治部少輔(今川義範)書下がある

 

6 今川氏兼の子・長男直忠、長女弾正少弼氏兼の女、次男頼春、三男末兼・頼之、四男範隆

今川氏兼の長男は、貞和三年(1347)の「修理亮」受任頃には生まれ、元服して「直忠」となる。長女は、それに前後して「今川弾正少弼氏兼の女」として生まれた。さらに、応安三年(1370)、伯父の今川了俊の九州探題下向を支えているので観応元年(1350)の前後に次男となる「頼春」が生まれる。そして、史料の乏しい三男の「末兼又は頼之」が生まれ、末弟の「範隆」が生まれたと考えられる。以下に確かな史料でその実態を述べる。

6―1 今川直忠について

今川直忠の出生は、父親の氏兼が元徳元年(1329)±一年と想定しているので今川九郎直世が修理亮を受任した貞和三年ごろには三河国須美保の館か駿河国で生まれたと考えられる。仮名は九郎と『蠧簡集残篇今川家系図に記されている。官途は越後守がなく、播磨守が記される以外は尊卑文脉等の系図と同じで修理亮、弾正少弼を受任している。

そしてその九郎が、延文五年(正平十五・1360)の十三歳ごろには元服して直忠と名乗ったと思われるが管見の限りこれを示す史料はない。官途は、父親の氏兼と同様に十九歳ごろ任じられたと思われる。すなわち貞治五年(文中元年・1366)ごろ修理亮に任じられたと思われるがこれも確かな史料では確認できない。さらに歳を重ねると応安三年(建徳元・1370)、伯父の今川了俊が九州探題への命を受け西下、直忠も今川一族の一員として氏兼の下で今川了俊を支え応安四年(建徳二・1371)十二月には肥前国潮田を通り二十三日に武雄山、二十七日には塚崎牟留井城、正月十三日に烏帽子岳、五年(建徳三・1372)二月二十三日凶徒寄せ来る合戦、長嶋庄を立ち、多久、蜷手、四月二十八日から佐野、八月十二日には大宰府陥落に関与する。

そして、父親の下で豊前国、筑後国、肥後国を転戦して着実に実績を重ねてゆく。至徳四年(嘉慶元年・1387)になると今川了俊の探題兼補国である日向国へ下向することになる。その状況を『日向記』には

先年治部大輔上洛以後者、當國の兵亂曾て止事なかりしかは、日向探題として今河播磨守、嘉慶元年(元中四年・1387)丁卵六

月(八月二十四日より年号が嘉慶になる。)下向、三年目康元年(元中六年・1389)己巳七月十七日、『犬追物手組日記』御

大将二十四匹(中略)斯て九年在留、永二年(1395)乙亥十月比より、日向国人等今河を令違背者共多かりけり、然其明る丙子年(永三年(1396)迄在国、六月穆佐高城を開き歸り登り玉ふ也、同八月廿九日島津陸奥守氏久山東に発向せらる 後略

とあり、今川氏兼(弾正少弼)の代官として今河播磨守が日向探題に下向したことがわかる。将にこの播磨守が直忠の官途であることがわかる。時に四十一歳で播磨守を名乗る。この播磨守は、『蠧簡集残篇今川家系図に記されている直忠の官途の播磨守に符合する。そして、この今播磨守は、朝山師綱の申請の明徳二年八月九日付け今川了俊施行状を下文に任せて日向国の相良近江入道立阿に沙汰している。そして、さらに氏兼の代官として直忠が入部したことを示す史料として日向伊東文書や入来院家文書に収められている直忠書状によって明らかになる。また、入来院家文書の直忠書状の花押と応永四年(1397)の大徳寺文書今川法珎の花押が一致するため直忠を法珎に比定できる。さらに同法珎書状の法珎の上方に今川讃州の付箋があり、この時点で「讃岐守」に任じられている。そして、翌年の応永五年(1398)には今川讃岐入道充ての足利義満御教書が三寶院文書に収められている。応永七年(1400)七月六日には足利義満より料所として日向国が今川讃岐入道法世(時に五十三歳)に宛がわれ、その名が「法珎」から「法世」に変わる。そして、応永十三年(1406)には今川了俊より『言塵集』を与えられる。応永十四年(1407)七月十二日には駿河国入江荘を伊達氏と争う(時に六十一歳)。そして、これ以降今川讃岐入道法世の名は管見の限りみいだしえない。ただ、永享十一年(1439)十一月十四日に入寂した藤沢八世太空上人の記した『時宗過去帳』に讃州法阿弥陀仏とあるので藤沢山清浄光寺に係る場所で没したことがわかる。因みに太空上人の藤沢山の帰山は、応永二十四年(1417)とされているのでそれ以降の没年とする蓋然性がある。時に七十一歳以降八十一歳である。

6−2 今川氏兼の女(むすめ)について

今川了俊が、応永十年(1410)に著した『二言抄』(和歌所不審条々)の奥書に

  此本 就積善庵主借失 重而不見之者也 了俊自筆本 其孫子今川弾正少弼方ゟ借出 仍享徳二年癸酉八月廿日下着於尾州丹羽郡稲木

  庄岩枕郷吉祥庵 後略

という条があり、積善庵主瑞禅の曽祖父にあたる紀行義に蒲原弾正氏兼女が嫁いだことが『尊卑文脉』の紀行義・行高の尻付に母 蒲原弾正氏兼女と記されていることにより分かる。

すなわち、積善庵主の瑞禅『二言抄』を失くしてしまい、了俊の自筆本を持っている今川弾正少弼方から借りて、その自筆本がある尾張国丹羽郡稲木庄岩枕郷の「吉祥庵」から届いたものを、享徳二年(1453)癸酉八月廿日に書き写したという内容から今川氏兼に女(むすめ)がいたことがわかる。では、いつごろ嫁したかというと、嫡男の直忠が「観応の擾乱」ごろには生まれていたと推定されるため遅くとも延文元年(正平十一・1356)ごろには「氏兼女」は生まれているので、仮に十八歳ごろとすると応安六年(文中二・1373)に「紀行義」に嫁したことになる。そして、応安八年(文中四1375・年)に「行俊」が生まれ応永二年(1395)には「之奏」が生まれ、応永十七年(1410)嫡男の「之盛」が生まれ、六番目の「瑞禅」が応永二十七年(1420)に生まれ、三十四歳になった瑞禅が、享徳二年(1453)に『二言抄』を書き写すという蓋然性はある。ちなみに、今川氏兼が蒲原氏兼と呼ばれるようになるのは観応の擾乱以降である。そして、このことから今川氏兼の所縁の人物についていくつかのことがわかる。

第一として、『二言抄』を失くした「積善庵主瑞禅」は、以下に示す『尊卑文』の紀氏系図の左衛門督行義の曾孫の「瑞禅」である。そして、その「行義」蒲原弾正氏兼女が嫁して「行俊」と「行高」の母が蒲原弾正氏兼女であったことがわかる。この蒲原弾正氏兼は、今川弾正少弼氏兼が駿河国蒲原荘を預けられた以降の名である。

 

     紀 氏 系 図 (尊卑文脈の一部抜粋)

〇孝元天皇  四代武内宿禰 後胤 左衛門督行義  ⇒〇行俊(母 蒲原弾正氏兼女

                       〇行春⇒〇行頼           〇正重(尾張堀田氏祖)

                       〇行高(母同)⇒〇之奏 ⇒〇之盛 ⇒〇之時

                        〇盛家 兄弟、之満、千菊・亀松丸早世

                                      〇瑞禅 末弟(積善庵主 山門法院、真照院)

 

第二に、享徳二年(1453)ごろ尾張国の丹羽郡稲木庄岩枕郷に住む「吉祥庵主」である今川弾正少弼氏兼の玄孫(やしゃご)がいたことが明らかになった。しかし、これにあてる適当な人物の史料は管見の限りない。ただ、再従兄弟(はとこ)に当たる瑞禅が容易に「二言抄」を借用できたことを踏まえると、この吉祥庵主は、今川了俊の歌学に造詣が深く曾祖父である直忠が了俊より授与された『言塵集』やこの二言抄などを受け継いだ人物で、尾張国丹羽郡稲木庄岩枕郷に於いで今川氏を名乗っていたことがわかる。

第三に、積善庵主の「瑞禅」の甥にあたる「正重」が『尾張志』に登場する堀田氏の祖となったことが上記系図より分かる。ここでは、紙面の関係で「正重」の先祖は今川氏と紀氏であることに留める。

6−3 今川頼春について

今川頼春は、嫡男直忠、長女弾正少弼の女(むすめ)が育ったと同じように成長して、十三歳ごろ元服して諱を頼春として駿河蒲原にあったと思われるが確かな史料は管見の限りない。そして、応安二年(1370)の今川了俊の九州探題下向に伴い父親の氏兼と嫡男の直忠と共に九州へ下向したと思われる。この下向は、氏兼が肥前の潮田を通る式見軍忠状にみられ、直忠と頼春も同道したと思われる。そして直忠は、日向国で伊東文書や入来院家文書にその事績を残す。しかし、頼春の明確な事績は確認できないが『大友家文書録』に頼春の名乗りがある「頼春書状」と「某預ケ状」の二通が収録されている。そして、この二通が九州における頼春の痕跡であるが損傷が著しく頼春の名を確認できる程度である。また、この大友家文書録に収録された古文書は二回罹災し、書き継がれてきたもので必ずしも正確な文書ではないと思わるが、その中の「某預ケ状」の文中に

南朝文中二年癸丑二月十四日夜、菊池 (欠) 前守武安等、渡筑後河 中略 (欠) 頼春発高上陣至綾部村 (欠) 後略

とあり、文中二年(応安六・1373)二月に頼春が筑後河付近にあったことが推定できる。ちなみに、九州探題関係の頼春の事績を確認できるのは管見の限り本預ケ状だけである。

次に頼春が現れるのは、相模国の『蒲原源氏系譜』(神原武男家所蔵)である。この系譜は、のちの神原氏につながる初代を頼春として次のように記している。

  頼春 今川源五郎 中務小輔 弾正少弼 讃岐守 従五位下

  明徳元年十一月、父氏兼カ家督并ニ遠州山梨荘ハ頼春相続ス、越後国豊田庄ハ直忠領ス、応安七年甲寅三月、九州合戦ノ時、父氏

兼二随ィ菊池ㇳ度々合戦  中略  応永二十二年乙未六月二十五日頼春卒、六十歳、号法名禅智

とあり、頼春が、明徳元年(1390)に嫡男の直忠を差し置いて家督を継ぎ、応安七年の九州の合戦で父氏兼と共に菊池氏と戦ったことがわかる。しかし、この氏兼から頼春への相続については不都合な事実がある。すなわち、明徳元年には氏兼は、直忠や当の頼春とともに九州にあり南朝勢力と対峙しているので事実とは異なると思われる。また、

応安七年三月、九州合戦ノ時父氏兼二随ィ菊池ㇳ度々合戦

とあるが、氏兼は、応安七年正月に豊前国の高畑城で城井常陸前司入道が挙兵(宮方として)したので大将として発向している。これに直忠と頼春も加わっていると思われるのでここでも事実との乖離がある。よって頼春とのつながりは考えにくいが、何らかの所伝があって『蒲原源氏系譜』が編纂されたと思われる。因みに、想定可能なものとしては、今川氏兼の子孫と思われる「今川神原」と呼ばれる神原氏が、幕府の『文安年中御番帳』(蜷川家文書)に在国衆の中の外様衆とあるのでこれとのつながりを考え方が合理的である。すなわち、今川神原とは駿河国蒲原にいる外様衆で幕府直属の上層御家人であり、足利義持の時代には今川播磨守として鎌倉府の足利持氏の動静を監視する役目を帯びた御家人である。そして足利義教の時代においてもその役目を継承してきた駿河国の蒲原荘園のある東部地区に勢力を張った一族で幕府内部において駿河国の神原氏で『文安年中御番帳』に今川神原とつづられた人物である。そして嘉吉元年に足利義教が赤松氏に暗殺された「嘉吉の変」以降幕府とのつながりが薄れ、駿河の今川範忠の勢力が東部地区におよぶ「永享の乱」や「結城合戦」のころには『今川記(富麓記)』の「前略 平塚に陣を取り、同名蒲原播磨守国府津に陣取て侍かけたり。」とあるように、また守護大名今川氏親が登場するころには被官化が進み「今川神原」や「今川蒲原」を輩出するようになり、永正十年(1512)の冷泉為広が駿河に下向するころには確実に今川家の家来になり「蒲原修理亮」として『為広駿河下向記』に記されている。さらに時代が進み戦国大名の今川義元のころの弘治三年(1557)正月十三日には「神原右近」や「蒲原右衛門尉」があらわれ、これを山科言継が『言継卿記』に記している。さらに永禄三年(1560)五月六日には「相模神原氏」の明証となる「高林源兵衛の狼藉を静め」今川氏真より袖判のある判物(神原文書)を賜った神原三郎左衛門がいる。そしてそれを支える史料として永禄八年(1565)十二月二十六日の「逆心の同族を許す」という今川氏真判物写が今川一族向坂家譜(静岡県史資料編三千三百十一号)に収められている。さらにその文中に「同各中幷牧野伝兵衛・高林源六郎・気賀伯父甥、此人等去年令逆心之条、雖可遂成敗、長能入道依無無沙汰令懇望之条、各免除、然者自今以後可抽忠節之旨、後略」とあり、これにみえる同族との関わりが考えられる。ちなみに、ここに見える気賀伯父甥の気賀は、遠江国にある「気賀」である。

 6−4 今川末兼について

 末兼は尊卑文脈等の系図に嫡男の直忠から数えて三番目に位置する氏兼の末の子といわれている。官途は兵部小輔であるがその事績は管見の限りみいだせない。

 6−5 今川頼之と範隆について

 頼之は蠧簡集残編今川家系図に範隆とともに現れる兄弟でなにを根拠にしているかわからない。しかし、この系図は父親の氏兼の初名を直世(1347)としている唯一の系図であり信憑性の高いものと考えられる。そして、官途は頼之が佐渡守、範隆は中務少輔・播磨守である。事績については、頼之は系図以外に何もみいだせないが範隆は官途が播磨守であるので嫡男の直忠と九州での事績が重なる。すなわち『日向記』に登場する今河播磨守と永徳二年(1382)の朝山師綱に関わる今川了俊の施行状を相良近江に沙汰した今川播磨守の事績である。そして、両者とも九州から上京した以降の播磨守の事績は管見の限りない。ただ、播磨守の子供と思われる今川播磨守が、駿河国と伊豆国界の駿河国蒲原で鎌倉府の動向を監視していたことを示す記録が満済准后日記の応永三十五年(1428)二月十日の条にある。そして、将軍足利義持が没しすぐに「今川播磨守が自由出家をして上京して将軍との対面を願っている」旨の記事が満済准后日記にある。さらに、永享四年(1432)の今川範忠の駿河守護相続に係る内訌で駿河に下向している今川播磨入道がある。そして、文安四年(1447)に鎌倉府の上杉憲忠に右京亮の口前案を届けた今川播磨守がいたことを上杉系図に記されている。因みに文安辰戊(五年・1448)に記された幕府の『文安年中御番帳』(蜷川家文書)の在国衆の中に外様衆として今川神原氏がいたことを伝えているので今川播磨守を今川神原氏と比定できる。。

 

7 今川蒲原氏兼の没年について

今川九郎が、元徳元年(1329)に生まれ元服(1341)して直世と名乗り、貞和三年(1347)には修理亮(十九歳)に任じられる。そして、観応二年(1351)ごろには氏兼と改名(廿三歳)して今川弾正少弼氏兼(駿河においては蒲原弾正少弼と呼ばれる)となる。応安三年(1370)には兄の今川了俊の九州探題就任によりそれを支えるため九州(四十二歳)に出向き豊前・豊後守護を務め、永徳二年(1382)の正月以前には、家督を直忠に譲って(五十四歳)大宰府天満宮安楽寺で今川一族の晴れの興行である「今川了俊一座の千句」の張行に加わる。そして、日向国に入り大光寺で尊堂の十三回忌の法要(1387)を営み(五十九歳)、康応元年(1389)三月には兄の了俊が著した『鹿苑院殿厳島神社詣記』の中の随行者に探題、今河越後入道、今川右衛門佐の名があり、今河越後入道(六十一歳)として確認される。さらに、同詣記には同年三月十七日には足利義満より今河越後入道に「御はかしなど給りてかち路で筑紫へ下る」とある。この今河越後入道の九州探題所在地の筑紫への下向の理由はわからないが、九州探題には直忠や義範(「今川了俊一座の千句」の時の抬頭書きされた挙句の序列)が詰めていたと思われる。因みに同年二月に高麗軍が対馬に攻撃をしたという記録が『東国通鑑』にあるのでその対応か、それとも『高麗史』巻百三十七の辛伝附載の辛昌伝は、嘉暦二年(1388)七月、日本国使妙葩・関西省探題源了俊が使者を派遣して方物を献じ、被虜二十五人を返して大蔵経を求めたことを記している(川添昭二氏著「今川了俊の対外交渉」三十七・八ページによる)。そしてその使節が九州探題に帰到してその対応に急ぎ下向した可能性はあるがいずれも確かな史料は残されていないので不詳である。

そして、応永二年(1395・六十七歳)の今川了俊の九州探題解任に伴い一族が小城に集まり舟で了俊とともに八月には京都に帰ったと思われるが、これ以降確かな事績が見いだせないため今川(蒲原)氏兼の没年は不明であるが、応永八年(1400・七十二歳)に本貫地の蒲原荘が今川奏範に料所として宛行われるのでそれ以前に没したと考えられる。因みに駿河国蒲原では応永五年(1398)に竜雲寺が再建されたという竜雲寺記(明治中頃の手記)があるのでこの応永五年前後を没年とする蓋然性はある。時に七十歳であった。

 

8 氏兼から始まる今川蒲原氏

今川九郎は、元徳元年(1329)に生まれ暦応四年(興国二・1341)ごろ元服して直世と名乗る。貞和三年(1347)には修理亮(十九歳)に任じられ、父親の今川範国に従って近江国醍醐寺で催された足利尊氏の法楽和歌(観応二年・1351)に臨み、その懐紙を京都松尾社にその年の十月に奉納した氏兼は、先に下り遠江国の小夜中山1で直義軍の動静を尊氏に注進している遠江守護今川範国と合流する。一方尊氏は、南朝と和睦して直義の追討の令旨を得て京都を十一月四日に関東に向けて出立し、東海道沿いの諸将に来援を求めて進軍し小川、丸子を経て十二月三日には手越河原に進み駿河府中に入り直義軍を賊軍として蹴散らし東進し、興津を越え大阪(おおさかと読む「逢坂」がある。)、十三日には蒲原庄の薩埵山、桜野、尾根の平坦な山中、さらに北松野2に進み、内房山での合戦3を制して直義軍4を鎌倉に向けて敗走させた。この時の足利軍は地の利が良く多くの戦果を挙げるが、確かな史料がなく『太平記』にその一端を「薩埵山合戦事」として次のように伝えている。

  十一月晦日駿河薩埵山打上リ、東北ニ陣ヲ張給ッ。相随フ兵ニハ、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守國清兄弟四人・

今河五郎入道心省・子息伊予守 後略

とあり薩埵山で今河五郎入道心省・子息伊予守(今河六郎貞世)がいたこと記している。しかし、この合戦で実際に手柄を挙げたのは今川範氏5や伊達景宗6で足利尊氏より直筆の感状などを貰っているが六郎貞世の活躍は見出せない。今川範国は、足利尊氏が嫡男の義詮を京都に留まらせたと同様に六郎貞世を義詮の傍において万が一の時のことを考え九郎氏兼を同道して合戦に臨んだのではないか。この六郎貞世(後の今川了俊)は、『太平記』の誤りを直すべく、今川一族の真実の歴史を子孫に伝える意図で『難太平記』を著しているが足利兄弟の骨肉の争いの「観応の擾乱」ついて何も書いていないのでよく分からないが京都にいたと思われる。そして、観応の擾乱が終息した後に氏兼は、今川範国の進言に基づいて富士川西岸の交通の要衝である蒲原庄を足利尊氏より幕府の料所として預けられ、屋敷を四角屋敷7という地に構え駿河国の今川蒲原氏となる。なお、この今川蒲原氏を発生させるのが駿河今川氏の初代となる今川範国である。この今川範国は、歌歴や出家の動機から推して、了俊の出生(1326)から「元弘の乱」(1333)が起こるまでは鎌倉の近郊で過ごし8参河の本拠との往来に急峻な薩埵峠のある蒲原庄を通って東海道を往来しており駿河の国に地の利に明るかった。また建武五年の美濃青野原の合戦での恩賞に「駿河国并数十ケ所の所領は此の後詰の時の恩賞也」と『難太平記』に記されており、尊氏より信を得ている武将で、鎌倉で直義が没した直後に尊氏奉書9を発している驍将であった。しかし、この今川蒲原氏については、確かな史料がなく比較的信憑性が高いとされる『今川記』や『今川家譜』があるが、この蒲原氏について

 元祖了俊の弟に、直兼は蒲原の播磨守、其次の氏兼は、同修理進、此両人の筋蒲原なり。

とあり、今川家譜も同文で

  元祖了俊ノ弟ニ、直兼ハ蒲原ノ播磨守、其次ノ氏兼ハ、同修理進、此両人ノ筋蒲原也。

となっており、了俊の弟に、直兼と氏兼がおり、播磨守と修理進の官途を帯びた二人の蒲原氏がいたことわかる。しかし、尊卑文脉等の系図では今川範国の三男で九郎氏兼、嫡男が五郎範氏、次男が六郎貞世、末弟が仲秋となっている。

では、なぜ二人の蒲原氏を記したのであろうか、川添昭二氏は昭和39年にその著書『今川了俊』において

今川記は、「前代之聞書」といわれ今川範国以来の記録を前主の中陰(死後四十九日までの間)中に記されたもので今川氏親が没した時、夫人の所望で一冊にまとめ、のち連歌師宗長が仮名文に略記したものを天正四年(1546年)にさらに書き改めているものである。今川家譜は、今川氏の発祥から武田氏信玄の

氏真攻撃までを片仮名書きしたもので筆者はわからない。

と述べられており、観応の擾乱(1351年)ごろの聞書およそ二百年後の天正四年(1546年)に写しているので乖離があっても不思議ではないと考えられる。では、この『今川記』や『今川家譜』の聞書はどのようなものであったか、管見の確かな史料を踏まえて想定すると次のようになる。

元祖了俊の弟に「直兼」は蒲原の播磨守を ⇒ 「直忠」を「直兼」と誤写し、蒲原播磨守に

其次の氏兼は、同修理進」を ⇒ 氏兼は、同修理亮の亮を同修理進の進と誤写

此両人の筋蒲原なりを    ⇒ 両人は蒲原氏なり

すなわち、元祖了俊の弟に氏兼、蒲原修理亮、この修理亮は、「東福寺文書の今河九郎直世が修理亮を受任」に符合する。そして、直忠は、蒲原播磨守として、日向守護の氏兼の代官として入部したことを示す『日向記』巻三に犬追物手組之日記に

前略 日向の探題として今河播磨守、嘉慶元年(1387)丁卵六月下向、三年目康応元年(1389)己巳七月十七日

と犬追物を行った記述があり、この今河播磨守が、直忠で蒲原播磨守に比定できる。また、直忠の官途である播磨守は、前出の項で氏兼の諱(いみな)を直世としている『蠧簡集残編今川家系図』に播磨守と記されている。そしてこの系図は、駿河今川一族の初祖から蒲原氏の祖である直世、後に氏兼そして嫡男の直忠更にその子の頼直を記している。

 

蠧簡集残編今川家系図(静岡懸史編纂史料 蠧簡集残篇抄 蠧簡集残篇 六 昭和三年)

 

                〇範氏 嫡子 上総介 中務大輔 五郎

                〇貞世 九州探題 法名了俊 伊与守

左京亮 六郎 瀬名先祖二男 

〇範国 五郎 法名心省 ⇒ 〇直世 越後守 弾正弼 修理亮 九郎 ⇒ 〇直忠 播磨守 弾正弼 ⇒ 〇頼直 弾正弼

                 三男 蒲原居住 蒲原先祖         修理亮 九郎        弥五郎

                                  〇頼春 佐渡守

                                  〇頼之 駿河守

                                  〇範隆 播磨守 中務大輔

             〇仲秋 京にて万里小路 法名仲高 左衛門佐

                 中務少輔 孫五郎 始國奏 四男

 

註)1小松茂美氏著『足利尊氏文書の研究』土岐家文書(184 足利尊氏自筆消息(模))足利尊氏が土岐右馬権頭に宛て「たゝいま廿三日いまかわ入道ちやうしん申て候一手大てとして上すぎのミんふ大輔」すなわち「只今二十三日、今川入道注進を申して候。一手、大手として上杉民部大輔」とあり、今川範国が注進。

2 金子信泰軍忠状『早稲田大学荻野研究室所蔵文書』「令警護駿州大阪・内房・北松野以下所々要害、」とあり、興津・大阪(逢坂)・薩埵山(由比山)・櫻野・尾根伝いに南に下ると「由比要害」由比は別名蒲原南之郷という。また尾根伝いに蒲原庄の中心になる丘陵地の入口に櫻野があり、その北方角の尾根伝いに内房山(蒲原庄の北界)があり、東方向には「北松野要害」があり富士河原に通じる。そして、北松野を南に下ると「蒲原要害」(応永十七年(1410)頃には蒲原城が形成され、永享五年(1433)の在地勢力による一揆に囲まれた時には確実に本曲輪が築造され、其城蒲原と今川範忠に言わしめた)、蒲原四角屋敷(藤原姓蒲原氏跡で今川蒲原氏の発祥地)や蒲原河原に通じる蒲原庄の全域の合戦であった。なお、応永十七年(1410)は、本曲輪堀切の発掘調査で検出された炭化木の放射性炭素年代測定値の中心値であり、蒲原城築城過程にある。

3足利尊氏御内書『小笠原文書』「十一日の合戦にゆい・かんハらにうちかつといえとも、」とある。

4足利尊氏御判御教書『斉藤勝郎氏所蔵文書』袖判(足利尊氏)「去年十二月二十八日、馳参由比山御陣之条、」と合戦がある。

5足利尊氏御内書写『今川家古文章写し』広島大学文学部国史学教室が所蔵する。

6伊達景宗軍忠状『駿河伊達文書』広島大学文学部国史学教室が所蔵する。

7『駿河国蒲原城址調査報告書』久保田敏郎氏著「蒲原城址について」竜雲寺前の四角屋敷の解明が 後略、結城儀郷氏著「第四節 蒲

原二氏と蒲原城」蒲原竜雲寺記(明治中ごろの手記)の伝承の中で、同寺所有の田面の中に「四角屋敷」九一二歩がある。中略 現

地は日経蒲原工場云々とある。

8 川添昭二氏著『今川了俊』28頁 今川範国は歌歴や出家の動機から推して、了俊出生から元弘の乱がおこるころまでは、主として

 鎌倉近郊で過ごし、参河の本拠と往来していたのではないか。この時氏兼は今川・一色の田畠を吉良貞義より宛がわれている。

9心省(今川範国)奉書「古簡雑纂五之六」『神奈川県史』資料編中世四千百五十二号   

 

 今川氏兼の子孫について 

今川氏兼の子孫は、古文書や系譜資料などから次のように分類できる。

第一には兄の今川了俊を支えるために九州探題に下向して二十年以上に亘り肥前、豊前、豊後、肥後、日向で活動した今川氏兼の子に、応永二年(1395)の今川了俊九州探題の解任後も肥前に残り『水江臣記』に登場する「蒲原刑左衛門」の系統で龍造寺長信の「馬揃え」以降もその事績が確認できる「肥前蒲原氏」の系統。

第二には、九州探題今川了俊より日向国への下向を命じられた今川氏兼(弾正少弼)が、至徳四年に日向大光寺で『今川某十三年忌拈香』1を営んだころ、今河播磨守が日向国に下向したことが『日向記』巻三に 

先年治部大輔上洛以後者、當國の兵亂曾て止事なかりしかは、日向探題として今河播磨守、嘉慶元年(元中四年・1387)丁卵六

月(八月二十四日より年号が嘉慶になる。)下向、三年目康元年(元中六年・1389)己巳七月十七日、『犬追物手組日記』御

大将二十四匹(中略)斯て九年在留、永二年(1395)乙亥十月比より、日向国人等今河を令違背者共多かりけり、然其明る丙

子年(永三年・1396)迄在国、六月穆佐高城を開き歸り登り玉ふ也、同八月廿九日島津陸奥守氏久山東に発向せらる 後略

とあり、今河播磨守が今川氏兼(弾正少弼)の代官として日向探題に下向し、南朝勢力に加担する島津氏久に対応していたことがわかる。そして明徳二年(元中八年・1391)八月九日には、足利義満の上使として下向した「朝山師綱」の申請に係る今川了俊施行状2にみえる日向国の相良近江入道(立阿)を下文に任せて沙汰している。

しかし今川播磨守貞兼が、日向国で事績を残していることを『大日本史料』第七編之一の応永元年(1394)二月十七日の件で「今川貞兼、日向、大隅、薩摩三国ノ乱ニ乗ジ、一揆ヲ援ケテ、日向梶山城ヲ攻ム、後略」の鋼文をたて『荘内平治記』や『島津国史』などを引用している。すなわち、

『荘内平治記』一 梶山合戦之事 

而ルニ永元年(1394)ノ春、今川播磨守貞兼、三州一揆ノ者共ト一致シ、和田、高木ヵ守ㇽ處ノ梶山ノ城ニ襲来ㇽ 後略

『島津国史』八 恕翁(元久の法名)公

  恕翁公使高城領主和田氏、花木領主高木氏、守日向高木山城(略)永元年甲戊(略)春二月、今川播磨守貞兼攻之、都城領主北郷誼久、遣其子藤次郎久秀、中略 三月七日、北郷誼久及伊地知又七郎戦死、和田高木棄城走、各保其邑、(據恕翁公舊譜、島津支流系図山田聖榮自記、永記、今川播磨守貞兼族属不詳諸家体系図貞世入道了俊第四子曰右京亮貞兼、豈此人也、舊譜以爲範氏第二子、不知何據)

などによって今川播磨守貞兼を今川貞兼としている。

しかし、『島津国史』八 恕翁公の記述に「今川播磨守貞兼族属不詳諸家体系図貞世入道了俊第四子曰右京亮貞兼、豈此人也」とあり、今川播磨守貞兼を族属不詳のため『諸家体系図』を用いて今川貞兼にあてるという不十分さがある。よって、ここでは、『旧典類聚』十一上山田聖榮自記の「大将今河ノ播州ハ山東へ引退ル」や『薩藩旧記』前集二十二恕翁公御譜中の「今川播磨守為大将、構陣於山東 後略」を引用して諱(実名)のない「今河ノ播州・今川播磨守」とし、今川播磨守を今川貞兼としない。また、この今川貞兼を「蠧簡集残篇今川家系図」の「貞兼」の尻付に尾崎とあることにより禰寝文書の「安東清綱書状」に記されている「一大隅国大将ハ尾崎殿下給候由、此間被仰下候、」とある尾崎にあてる向きがあるが、この尾崎殿は薩摩國和泉郡の木牟禮城や尾崎城に係る在地勢力の和泉氏3の系統で尾崎城4を根城にするものであって九州探題今川了俊の四男の貞兼ではない。すなわち、九州探題に下向する応安四年(1371)前に三河国尾崎に居を構えていない。居を構えて尾崎殿と呼ばれるようになるのは、父親である今川了俊が九州探題を解任される応永二年(1395)以降の駿河半国を預けられるころで、三河国矢作付近の尾崎5を所領として宛がわれる。そして、其の子と思われる今川尾崎伊與守が永享五年(1433)閏七月廿五日に『満済准后日記』に現れる。

そして、永二年(1395)の今川了俊九州探題解任より、「日向国人等今河を令違背者共多かりけり、然其明る丙子年(永三年・1396)迄在国、六月穆佐高城を開き歸り登り玉ふ也、」(前出日向記の後半)とあるように今河播磨守は、翌年の永三年(1396)六月に穆佐高城を開き日向国から京都に帰る。

ちなみに、今河播磨守と同じように今川氏兼の代官として日向で活動した人物に息子の直忠6がいる。そして直忠は、蠧簡集残篇今川家系図の「直忠」の尻付に官途が播磨守・弾正弼・修理亮、次男の頼春は佐渡守、三男の頼之は駿河守、四男の範隆は播磨守・中務大輔と記されており、直忠か範隆のいずれかが今川播磨守である蓋然性はあるが、比定するには何れかが応永三年に上京した後の播磨守の事績が求められる。しかし、直忠は翌年の応永四年九月に尾張守護で今川讃州法珎としての事績が大徳寺文書で確認され、九州探題における功績により尾張守護讃岐守に補任されたと考えられ、時に四十七歳であった。他方、範隆は管見の限り系図を除いての事績を確認できない。仮に尊卑文脉等の系図にある氏兼の子が直忠、頼春、末兼の三人で末弟を末兼とすると、蠧簡集残編今川家系図にある直忠の子の頼直に頼之と範隆が加わることになる。そして、今川了俊の九州探題解任に伴い帰京した直忠が尾張国守護今河法珎となる応永四年に範隆が直忠の跡を継いで播磨守に任じられ今川播磨守範隆となったと考えられる。九州生まれの三男となる。そして、諱が範隆であるので元服時に駿河今川一族の初祖である今川範国の「範(のり)」を偏諱(へんき)として賜り「範隆」となり、応永三年の上京に伴う播磨守受任の蓋然性はある。

次に今河播磨守が現れるのは二十年後の応永二十三年(1416)で「上杉禅秀の乱」の起きた足利義持の時代の駿河国と伊豆国の界の蒲原である。今河播磨守は、鎌倉公方の足利持氏の動静を監視する役目を帯びて駿河に下向している。そして十二年後の応永三十五年(1428)正月の足利義持の死去に伴い自由出家して上洛7し将軍に対面を求めている。その後対面が叶えられ、将軍足利義教より自由出家の咎を許されて8京都で将軍の扶持を得ている。しかし、その五年後の永享五年(1433)には駿河守護の相続に係る内訌により駿河府中が騒乱となり、国中で一揆が起き、その鎮圧のために幕府より今川播磨入道として再び駿河下向(『満済准后日記』の永享五年七月二十六日の件)が命ぜられ、一揆の鎮圧に努める最中の同年九月三日に一揆の中心的人物の狩野介の湯島城が落ちて内訌が静まり「今川範忠」の駿河守護が確定する。そして、出家した今川播磨守も駿河国蒲原を含む東部地域での権益を回復して引き続き足利持氏の動静を監視する役目を果たしている。

ちなみに、今川播磨守の下向した駿河と伊豆国界にある「蒲原城」も一揆に囲まれ「牟礼但馬守」が、由比川の左岸に所領をもつ「由比佐源太」と駿河国逢坂付近にある高山に城山をもつ「高山玄光」を討取ったという感状が永享六年(1434)正月に『今川範忠判物』9として発せられている。そして、鎌倉府に於いては、十一年後の永享十二年(1440)に結城合戦が起き、それを著した『今川記』の第四の件に

  前略 今川上総介範政(範忠の間違い)被仰、駿河勢を引率して足柄山を越えて、平塚に陣をとり、同(今川)蒲原播磨守国府津

に陣取  て待かけたり、後略

とあるように今川蒲原播磨守が鎌倉府内の国府津に進出したことがわかる。さらに、文安四年(1447)には今川播磨守が上椙範忠の関東管領就任に必要な幕府の承認の証となる官途「右京亮」を鎌倉府に届けたという記録が『上杉系図』の憲忠の尻付に「文安丁卯(四年・1447)九月廿五日 今川播磨守帯綸旨(綸旨でなく口宣案の間違い)下着 」10とあり今川播磨守の事績が鎌倉の地で確認される。ちなみに、この上杉憲忠の「右京亮」を支える史料として文安五年十一月二十一日の右京大夫より上椙右京亮宛の奉書11がある。

さらに、文安戊辰(五年・1448)につづられた幕府の『文安年中御番帳』の「外様衆の中に『今川神原』」12の名があるので今河播磨守が駿河国蒲原(蒲原が神原とも記される『浅野文庫諸国古城図神原城』)に所在する外様衆であることがわかり、今川蒲原播磨守が幕府では「今川神原」と認識され駿河国蒲原に世代を越えて存在したことがわかる。

そして、六十四年後の永正十年(1512)に駿河を訪れた冷泉為広の『為広下向記』13の備忘録にあたる部分に今川家の家臣の名が記されており、その中の被官に位置づけられる「蒲原修理亮」がいる。この蒲原修理亮は、中央とのつながりが薄れ「外様衆」の勢力が衰弱して守護大名である今川氏親の勢力に吸収され番衆でなく今川氏の家臣となっていることが窺える。さらに、三十一年後の天文十二年(1543)には戦国大名の今川義元の家人、蒲原弥三郎(臨済寺文書)、十三年後の弘治二年(1556)に山科言継が、駿河に滞在して間に今川義元に近い家臣に蒲原右衛門慰、今川氏真に近い神原右近の二人がいることを『言継卿記』14に記している。そして、十三年後の永禄十二年(1569)以降の今川氏真の花押のある書状を沙汰した連署書状の『勢州御師亀田文書(内閣文庫)』があり、連名の一方に蒲原太郎四郎(真房)15があり今川氏真の被官であったことが窺える。そして、これ以降、確かな史料では蒲原氏の事績は確認できない。ちなみに、この永禄十二年の十二月は、駿河国蒲原城が、甲斐の武田信玄により攻め落とされ歴史の舞台から消える。

 

1山口隼正氏著『南北朝遺文』九州編第五巻付録昭和639月「日向・薩摩と今川氏兼・貞継−探題今川氏九州支配末期の一こま

 ―」

2 川添昭二氏著『中世九州の政治・文化史』第六諸連歌師朝山梵灯の政治活動の百七十二頁にある思文閣待買文書

3 島津師久注進状『薩藩旧記』前集十八 師久公御譜中 薩摩國凶徒和泉庄下司 中略 泉田知色彦三郎入道行覚所楯籠尾崎城、後略

4 鹿児島県総合教育センター編『鹿児島県の歴史外観』鹿児島県域における中世の城郭の分布

5 岡崎市HP 『市のあゆみ』隣接町村合併沿革 昭和351月1日 旧矢作町の一部に尾崎町がある

6川添昭二氏著『舊記雑録』付録昭和63年1月「南九州経営における九州探題今川了俊の代官」伊東文書三通及び入来院家文書一通

7続群書類従完成会編『満済准后日記』巻第八百七十 上 四百八十四頁 「今川播磨不申御暇自由出家シテ上洛」とある

8続群書類従完成会編『満済准后日記』巻第八百七十 上 四百八十五頁 「今河播磨ニハ有御對面早々可被下云々」とある

9記録御用所古文書『今川範忠判物』国立公文書館内閣文庫所蔵 『史跡蒲原城址』(駿河国蒲原城址発掘調査概要報告書)表表紙に

複写

10続群書類従完成会編『続群書類従 系図部』巻第百五十三 上杉系図 範忠尻付に「文安四年丁卯九月廿五日今川播磨守帯綸旨下

着」

11 覚円寺文書『神奈川県史』資料編三 六千七十二号 室町幕府管領奉書寫の宛名に上椙右京亮とある

12 蜷川家文書『文安年中御番帳』大日本古文書所収 文安五年を示す頁の外様衆の中に今川神原とある

13冷泉家時雨亭叢書『為広下向記』「為広駿州下向日記」 釈文 七十二頁 蒲原修理亮とある、同二百九十六頁に原文が複写されて

いる

14続群書類従完成会編『言継卿記』廿ニ 弘治三年正月十三日 神(カ)蒲原右近 同月二十九日 蒲原右衛門尉とある

15勢州御師亀田文書『静岡県史』中世三 三千七百七十二 今川氏真書状写及び副状により蒲原太郎四郎(真房)がわかる

 

第三に氏兼の嫡男直忠は、今川了俊九州探題分国の日向国において氏兼の代官として土持氏に合力を依頼する直忠書状(日向伊東文書三通)1や嘉慶二年(元中四年・1388)の翌年正月以降に日向国から薩摩の渋谷氏に発した直忠書状(入来院家文書)2を発出している。そして、応永二年の今川了俊探題解任後も日向探題として島津氏久と対峙(島津伊久充て大友親世書状「就中播磨守對奥州御陣合戦之由承候、」を『前期旧記雑録』巻三十一)して翌年の応永三年(1396)に帰京したと思われる。さらに、翌年には今川讃州法珎(『入来院家文書』の「直忠書状」の花押と『大徳寺文書』の「法珎書状」の花押が一致する)3として尾張守護に補任され、年欠(応永四年カ)の九月三日に入野刑部少輔に書状を発し、応永四年(1397)十一月二十二日にはその入野刑部少輔に係る高井河内入道充ての「法珎書状」4を発している。応永五年(1398)閏四月二十八日には将軍足利義満より今川讃岐入道法世充て(法珎が出家して法世に)の御判御教書が発出されている。応永六年(1399)二月十七日には尾張国の「有安名」が今河讃州の所領となっている(愛知県史通史編資料2010)。応永七年(1400)七月六日には将軍足利義満が日向国を料所として今川讃岐入道法世(五十二歳ごろ)に預ける。しかし法世は、応永二年の今川了俊探題解任後も日向探題として島津氏久との対峙を踏まえて辞退したと考えられる。そして今川了俊同様に「応永の乱」に加担したと疑われ、本来なら今川氏兼の本貫地である蒲原庄を嫡男の今川讃岐入道法世が継ぐはずであるが、同年四月二十五日には甥の駿河守護今川泰範が「応永の乱」の褒美として預けられる。その後、今川讃岐入道法世は今川了俊が許されたと同様に許され上京して文芸活動に親しみ、応永十三年(1406)には今川了俊から『言塵集』を授与(同書の奥付に今川讃岐入道法世に与えるとある)される。

一方駿河国に於いては、応永十四年(1407)に蒲原荘に隣接する入江庄についての権益を駿河伊達氏と争う。そして、応永十六年(1409)には駿河守護今川奏範が没し、料所として預かっていた蒲原荘が応永十八年(1411)には石清水八幡宮に寄進される。

永享五年(1433)正月に今川範政没する。そして、遊行寺十四代・藤沢八世の太空が『時宗過去帳』に帰依していた駿河今川氏の「範政其阿」、「讃州法阿」、「伊予覚阿」、「駿河入道来阿」、「探題像阿」5を記したとされる。

なお、今川讃岐入道法世は、上記の「讃州法阿」にあたるので永享五年(1433)正月の今川範政が没してから遠くない永享十一年(1437)の太空が没する前に「今川讃州法阿弥陀仏」として相州で没したと思われるがさだかでない。時に八十三・四歳だあった。

 

   1 URL:『駿河国蒲原城』蒲原城の史料調査(上)補稿「6今河越後守氏兼から今川讃州法珎・讃岐入道」(4)『直忠書状写』

(垂水氏旧蔵伊東文書)http://kanbara30sakura.ne.jp

2 URL:『駿河国蒲原城』蒲原城の史料調査(上)補稿「6今河越後守氏兼から今川讃州法珎・讃岐入道」(3)『直忠書状』(入

来院家文書152号)http://kanbara30sakura.ne.jp

3URL:『駿河国蒲原城』蒲原城の史料調査(上)補稿「6今河越後守氏兼から今川讃州法珎・讃岐入道」http://kanbara30 sakura.ne.jp

4大徳寺文書十二―三千百五号『尾張守護沙弥法珍書状』

5皆川義孝氏著『時宗総本山清浄光寺所蔵史料にみる東国武将と時宗』史料四について九頁、祢宜田修然・高野修氏編『遊行・藤沢

歴代上人史』七十四〜五頁「遊行十四代・藤沢八世 太空」によりわかる。

   

第四は今川氏兼の女(むすめ)の系統で、今川了俊が応永十年(1410)に著した『二言抄』(今川了俊和歌所不審条々)の奥書に

  此本 就積善庵主借失 重而不見之者也 了俊自筆本 其孫子今川弾正少弼ゟ借出 仍享徳二年癸酉八月廿日下着於尾州丹羽郡

稲木庄岩枕郷吉祥庵 後略

という件があり、積善庵主瑞禅の曽祖父にあたる紀行義に蒲原弾正氏兼女が嫁いだことが『尊卑文脉』の紀行義・行高の尻付に母 蒲原弾正氏兼女と記されていることによりわかる。よって、今川氏兼の子孫は次に示す『尊卑文脉』の紀行義の子に行俊行高があり、両者の尻付に母 蒲原弾正氏兼女と記されているから孫にあたることがわかる。そして行高には子供がなく行春の子を養子にして之奏とし、その子に盛家・之満・千菊・亀松丸とあり末弟に玄孫(やしゃご)にあたる瑞禅があり、積善庵主・山門法院・真照院と呼ばれた。さらに、之盛の子に之時と正重があり、正重は尾張堀田氏祖となった。

 

     紀 氏 系 図 (尊卑文脈の一部抜粋)

〇孝元天皇  四代武内宿禰 後胤 左衛門督行義 ⇒〇行俊(母 蒲原弾正氏兼女

                       〇行春⇒〇行頼           〇正重(尾張堀田氏祖)

                       〇行高(母同)⇒〇之奏 ⇒〇之盛 ⇒〇之時

                        〇盛家 兄弟、之満、千菊・亀松丸早世

                                      〇瑞禅 末弟(積善庵主 山門法院、真照院)

 

第五に氏兼のニ男の頼春は今川了俊探題分国で活躍して「大友家文書」に今河頼春としての事績が確認される。今川頼春は、嫡男直忠、長女弾正少弼の女(むすめ)が育ったと同じように成長して、十三歳ごろ元服して諱を頼春として駿河蒲原にあったと思われるが確かな史料は管見の限りない。そして、応安二年(1370)の今川了俊の九州探題下向に伴い父親の氏兼と嫡男の直忠と共に九州へ下向したと思われる。この下向は、氏兼が肥前の潮田を通る式見軍忠状にみられ、直忠と頼春も同道したと思われる。そして直忠は、日向国で伊東文書や入来院家文書にその事績を残す。しかし、頼春の明確な事績は確認できないが『大友家文書録』に頼春の名乗りがある「頼春書状」と「某預ケ状」の二通が収録されている。ちなみに、この二通が九州における頼春の痕跡であるが損傷が著しく頼春の名を確認できる程度である。また、この大友家文書録に収録された古文書は二回罹災し、書き継がれてきたもので必ずしも正確な文書ではないと思わるが、その中の「某預ケ状」の文中に

南朝文中二年癸丑二月十四日夜、菊池 欠 前守武安等、渡筑後河 中略 欠 頼春発高上陣至綾部村 欠 後略

とあり、文中二年(応安六・1373)二月に頼春が筑後河付近にあったことが推定できる。ちなみに、九州探題関係の頼春の事績を確認できるのは管見の限り本預ケ状だけである。

次に頼春が現れるのは、相模国の『蒲原源氏系譜』(神原武男家所蔵)である。この系譜は、のちの神原氏につながる初代を頼春として、次のように記している。

  頼春 今川源五郎 中務小輔 弾正少弼 讃岐守 従五位下

  明徳元年十一月、父氏兼カ家督并ニ遠州山梨荘ハ頼春相続ス、越後国豊田庄ハ直忠領ス、応安七年甲寅三月、九州合戦ノ時、父氏兼二

  随ィ菊池ㇳ度々合戦  中略  応永二十二年乙未六月二十五日頼春卒、六十歳、号法名禅智

とあり、頼春が、明徳元年(1390)に嫡男の直忠を差し置いて家督を継ぎ、応安七年の九州の合戦で父氏兼と共に菊池氏と戦ったことがわかる。しかし、この氏兼から頼春への相続については不都合な事実がある。すなわち、明徳元年には氏兼は、直忠や当の頼春とともに九州にあり南朝勢力と対峙しているので事実とは異なると思われる。また、

応安七年三月、九州合戦ノ時父氏兼二随ィ菊池ㇳ度々合戦

とあるが、氏兼は、応安七年正月に豊前国の高畑城で城井常陸前司入道が挙兵(宮方として)したので大将として発向している。これに直忠と頼春も加わっていると思われるのでここでも事実との乖離がある。よって頼春とのつながりは考えにくいが、何らかの所伝があって『蒲原源氏系譜』が編纂されたと思われる。因みに、想定可能なものとしては、今川氏兼の子孫と思われる「今川神原」と呼ばれる神原氏が、幕府の『文安年中御番帳』(蜷川家文書)に外様衆とあるので、これとのつながりが考えられる。

 

 第六には氏兼の三男の末兼の系統がある。この末兼は尊卑文脉等の系図に嫡男の直忠、次男の頼春、末弟に位置づけられる諱の末兼と考えられる。官途は兵部小輔であるがその事績は管見の限りみいだせない。

 

 第七は頼之と範隆の系統である。頼之は蠧簡集残編今川家系図に範隆とともに現れる兄弟で、なにを根拠にしているかわからない。しかし、この系図は父親の氏兼の初名を直世としている唯一の系図であり、信憑性の高いものと考えられる。そして、官途は頼之が佐渡守、範隆は中務少輔・播磨守である。事績については、頼之は系図以外にみいだせないが範隆は官途が播磨守であるので嫡男の直忠の九州での事績が重なる。すなわち『日向記』に登場する今河播磨守と永徳二年の朝山師綱に関わる今川了俊の施行状を相良近江に沙汰した今川播磨守の事績である。そして、九州から上京した以降の事績は管見にない。仮に尊卑文脉等の系図にある氏兼の子供を直忠、頼春、末兼の三人で末弟を末兼とすると蠧簡集残編今川家系図にある直忠の子の頼直に頼之と範隆が加わることになる。そして、今川了俊の九州探題解任に伴い帰京した直忠が尾張国守護今河法珎となる応永四年に範隆が直忠の跡を継いで播磨守に任じられ今川播磨守範隆となったと考えられる。

 

第八は吉祥庵主の系統である。この庵主は、今川了俊が応永十年に著した『二言抄』(和歌所不審条々)の奥書にある享徳二年八月日寫之の部分に

  此本、就積善庵主瑞禅借失、重而不見之物也、自筆本、其子孫今川弾正少弼方ゟ借出、仍享徳二年癸酉八月廿日下着於尾州丹羽郡稲木

  庄岩枕郷吉祥庵 後略

とあり、享徳二年 1453)に今川弾正少弼の子孫が、尾張国の稲木荘岩枕郷にある「吉祥庵」にいたことがわかる。そして、この子孫である吉祥庵主は、尾張守護今川法珎(今川直忠)の子の頼直(蠧簡集残篇今川家系図)で、後に父親の今川讃岐入道法世が今川了俊に所望して授けられた『言塵集』やこの『二言抄』外の今川了俊の著した作品を所蔵する庵を尾張国に開いたと推定される。

 

10 蒲原城の史料調査(上)補稿の蒲原氏兼についての訂正

『東福寺文書上58』の今河九郎直世の出現による下記

(2)蒲原氏兼について

   今川氏兼が蒲原氏兼を名乗った明証は、『水江(みずがえ)臣記(しんき))9に係る「多久諸家系図」に求められる。この諸家系図は、戦国大名龍造寺氏の庶流とされる水ヶ江龍造寺長信が元亀元年(1570)に多久に入城したときの家臣百数十人分の由緒を編集した『水江臣記』に記された家臣達の家系図集である。そしてその中の「高木系図」に以下に示す蒲原氏の記述がある。

    高木  27代 正宗 「九州探題下向廿六年後改蒲原直世」

この「改蒲原直世」の直世は、尊卑分脉等の系図によると蒲原氏兼にあたり、九州探題に下向して廿六年後に兄今川了俊の探題解任を機に改名した名乗りであると考えられる。そして、応安4年(1371=建徳2年)12月に九州へ下向した時期には既に蒲原を名乗っていた。すなわち、今川氏兼が蒲原庄を拝領して家臣などの周辺からは「今川の蒲原殿」と呼ばれていたことになる。

に過ちがあった。すなわち、高木  27代 正宗 「九州探題下向廿六年後改蒲原直世」の直世は、今川九郎が元服した康応四年(1341・興国二年)には名乗っていた。そして、貞治二年には弾正少弼氏兼という名の奉加状があり、直世から氏兼に改められ、貞治三年には源氏兼という名が彰考館蔵「一万首作者」の詠み人の中にみえる。ただ、蒲原直世の直世が、永徳二年(1382・弘和二年)正月二十二日に大宰府の安楽寺で張行された今川了俊一座の連歌の連衆の中の署名に「直助」、「直輔」、「直籐」と三人の直のつく名があるが、これらを氏兼に比定する向きもあるため、高木系図を作成する段階で誤って直世と書き間違えた蓋然性はある。

 

 11 前稿の6今河越後守氏兼から今川讃州法珎・讃岐入道についての訂正および補稿

前々稿で日向の国で活躍した今河越後守氏兼が、兄今川了俊の九州探題解任に伴い帰京した後の事跡を現すものとして『改選諸家系図続編』の「今川系図」注)31に記されている官途讃岐守を証にして次の(1)に示す『法珎(ほうちん)書状』とした。しかし、この人物は今川氏兼でなく、探題兼補の日向守護である今川氏兼の代官として事跡を残した息子の「今川直忠」であることが以下に示す日向関係の書状(3)『直忠書状』と(4)『直忠書状写』の花押(正確に写されている)が一致することにより判明した。

そして、そのことにより応永五年(1398)閏四月二十八日に足利義満より三寶院に係る命を受けた尾張守護今河讃岐入道、応永七年(1400)七月六日に足利義満より日向を領国として与えられた今川讃岐入道法世、応永十三年五月に今川了俊より『言塵集(ごんじんしゅう)』を授与され、翌年七月十二日に伊達氏と駿河国入江庄を争った今川讃岐入道法世、清浄光寺にある時宗過去帳に記されている今川讃州法阿弥陀仏も今川直忠に比定される。

1)『法珎書状』大徳寺文書之十二(3104

入野刑部少輔殿  法珎書状(封紙ウワ紙)

紫野塔頭如意庵領事、公方御寄進地事云々、随

知行干今無相違候哉、自然

寺家方代官方より、被仰

子細侯者、毎事可被扶持申候、

此段高井にも可被仰候、

恐々謹言

今川讃州(押紙)  

九月三日   法珎(花押)

入野形阝少輔殿

この文書は、年次が欠けているが文中の高井に係る書状が次の(2)に示す文書であり、応永四年に発せられているので応永4年9月3日付けの書状と考えられる。そして、押紙で今川讃州とあるので法珎は今川氏である。

(2)『法珎書状案』大徳寺文書之十二(3105)

  紫野如意庵領破田事、別而此

寺事扶持申子細候、於向後者

京上夫才事やとい申書をも、

可被斟酌候、あまりにあまりに難去

被仰候間、如此申候、可被心得候、

恐々謹言

応永四(1397)     

十一月廿二日   法珎御判

高井河内入道殿

(奥書)

人夫役 今川殿御免状案 応永四年十一月廿二日

この文書は、前文書に係る高井河内入道に宛てた法珎の応永4年1122日付けの書状

案文であり、奥書に今川の記述があるので法珎は今川氏である。

(3)『直忠書状』(入来院家文書152号)

年首慶賀、自他雖申篭候、尚以不可有尽期候(中略)相良并嶋津又三郎以下凶徒、可打越當方之由、其聞候之間、用意最中候、然者其堺計策事、被差寄候者、三ヶ國對治不可廻時非候、早々可有談合候、此合戦打勝候者(中略)連々奉可申候、恐々謹言

   正月廿五日                 直忠(花押)

   渋谷佐馬助殿

この文書は、年次が欠けているが日向にいる今川直忠が薩摩の渋谷佐馬助に宛てた書状で「相良并嶋津又三郎以下凶徒」とあるので相良前頼が宮方になったのが元中2年(1385=至徳元年)1010日、島津又三郎が家を継いだのが嘉慶元年(1387)閏54日であるので嘉慶2年(1388=元中5年)以降の正月廿五日に発したものである。

(4)『直忠書状写』(垂水氏旧蔵伊東文書)

  如仰此間不申奉候、無心元候之處(中略)抑探題(今川了俊)薩州下向事、今度者子細候間、一身(直忠)被存候(中略)委細此僧可被仰候、事々期後信候、恐々謹言

    十月十日                  直忠(花押)

    大塚殿御返事