蒲原城の史料調査(上)補稿

        綜合設計歴史公園担当 天野 進

                                                         平成151225日 補稿

 はじめに

 本稿は、蒲原町制百周年の記念事業の一環として行われた蒲原城復元整備事業に係る発掘調査(昭和63年、平成元年)の概要報告書である『駿河国蒲原城址発掘調査報告書』注)1に収められた研究ノートの5-3「蒲原城の史料調査(上)」を、その後の出土遺物の年代分析結果、史料の訂正・追補を踏まえ小稿の1712を改めるものである。また、前稿で言及した下編は、総合的な発掘調査が実施されないため休止とする。

 

1 今川氏兼の生誕(元徳元年1329±1年)

 今川氏兼の生誕は、現在までそれを示す史料が発見されていないので不明であるが、当時の戸籍にあたり比較的に信憑性が高い尊卑文脉等注)2の系図によると、今川範国の三男で仮名を九郎、元服して氏兼、直世等と名乗り、官途受領名が修理亮・弾正少弼・越後守で蒲原氏の祖とされている。  

また、古文書等の確かな史料としては、吉良満義注)3が建武3年(1336=延元元年)1011日に三河国の須美という保(国衙)の政所職を今川九郎に給与する書下と吉良貞義注)4が建武5年(1338=延元3年)47日に三河の今川・一色の地を今川九郎に与える打渡状がある。

そして、これらは何れも宛名が仮名の九郎となっていることから元服前に宛行われたことがわかる。このことは、当時の武家の元服年齢を12〜13歳、子供が社会で人と扱われる年齢を7注)5以上、公家の元服が7歳の冬注)6と定められていることを考え合わせると、今川氏兼は建武3年(1336=延元元年)に7歳以上、建武5年(1338=延元3年)に11歳以下であることになり1328年から1330年に誕生したと推定される。そこで本稿は、今川氏兼の生誕を元徳元年(1329±1とする。因みに、すぐ上の兄の今川六郎貞世(さだよ)が嘉暦元年(1326)生れ注)7であることからこの生誕には矛盾がない。

 

2 今川九郎から今川氏兼・蒲原氏兼へ

 今川範国の三男として生れた九郎は、本来なら仏門に入り惣領が万が一の場合に備える立場にあったが、時代は建武の新政に向けて大きく変わりつつ動乱の時代に入り、武将の子として成長を余儀なくされ、父今川範国と共に三河から遠江、駿河、鎌倉と移動し元服して今川氏兼、駿河に入り蒲原庄を給与され蒲原氏兼を名乗り蒲原氏の祖となった。

では、元服して氏兼となり、蒲原氏兼となったことを示す史料はというと以下に示す史料がある。

(1)今川氏兼について

水戸の彰考館所蔵の『一万首作者』注)8という一紙の中に源姓の氏兼という名乗りがある。これは将に元服した氏兼を示す。この一万首作者は、貞治3年(1364=正平19)から4年(1365=正平20)頃に足利義詮・二条為明等の発企による和歌に参加した人名集であり、沙彌心省(出家した今川範国)を筆頭に一族の名が以下の順序で綴られている。

 

   今川入道         今川上総介          今川越後守        治部大輔   

沙彌心省(今川範国)、源範氏朝臣(今川範氏)、源氏兼(今川氏兼)、源義宣(今川

今川中務大輔       式部大輔        今川宮内少輔  

義範)、源氏家(今川氏家)、源定義(今川定義)、源泰範(今川泰範)

 

以上の記述から、今川九郎が元服して氏兼を名乗ったことがわかる。また、官途も越後守を拝名し、貞治3年(1364=正平19)頃には京都にいたことがわかる。

 

(2)蒲原氏兼について

 今川氏兼が蒲原氏兼を名乗った明証は、『水江(みずがえ)臣記(しんき)注)9に係る「多久諸家系図」に求められる。この諸家系図は、戦国大名龍造寺氏の庶流とされる水ヶ江龍造寺長信が元亀元年(1570)に多久に入城したときの家臣百数十人分の由緒を編集した『水江臣記』に記された家臣達の家系図集である。そしてその中の「高木系図」に以下に示す蒲原氏の記述がある。

 

   高木  27代 正宗 「九州探題下向廿六年後改蒲原直世」

 

この「改蒲原直世」の直世は、尊卑分脉等の系図によると蒲原氏兼にあたり、九州探題に下向して廿六年後に兄今川了俊の探題解任を機に改名した名乗りであると考えられる。そして、応安4年(1371=建徳2年)12月に九州へ下向した時期には既に蒲原を名乗っていた。すなわち、今川氏兼が蒲原庄を拝領して家臣などの周辺からは「今川の蒲原殿」と呼ばれていたことになる。

それでは、いつ蒲原を名乗ったかと言うと明確な史料は検出されていない。しかし、手掛りとなる史料として以下に示す御判御教書がある。

 

   鹿苑院殿(足利義満)

       御判

   駿河国蒲原庄事、為料所領置今川上総入道法高(今川泰範)也、

者守先例可致沙汰之状如件

   応永七年四月廿五日

この御教書は、足利義満が蒲原荘を幕府の料所として今川泰範に預けたものである。そして、その文中に「守先例」とあるのは、今川泰範自身が蒲原荘を預かったことがないので今川一族の誰かが応永7年(1400)以前に料所として預かったその先例を守ってという意味になる。ではその先例はと言うと前述の蒲原氏兼すなわち今川氏兼のことになる。それでは、今川氏兼がいつ蒲原庄を拝領して蒲原殿と呼ばれるようになったかと言うと以下に示す今川氏兼の事跡を遡ることと蒲原城発掘調査によって出土した遺物の年代分析結果から求められる。

1)今川氏兼の事跡について

@    応安4年(1371=建徳2年)12月3日に九州の肥前で少弼(しょうしつ)(蒲原氏兼)注)10として潮田を通り武雄山凶徒と戦う。 

A    貞治3(正平19)〜4年(1365)、京都に於いて『一万首作者』に係る和歌を詠み周辺からは今川越後守と目されている。

B    貞治3年(1364=正平19)、京都に於いて父今川範国の名代として越後守奉書注)11を発するなどの補佐を行っている。この時期の今川範国は幕府の引付頭人注)12として重責を担っていた。とくに観応3年(1351=正平6年)3月29日には将軍の執事というべき施行状注)13を発する重要な立場にあった。

C    康安元年(1361=正平16年)、足利義詮が執事の細川清氏と対立して今川範国の館に避難したとき、今川氏兼は細川清氏より足利義詮への仲介を依頼注)14されるが関り合いを恐れて拒否する。

D    延文元年(1356=正平11年)父今川範国と共に、駿河国承元寺で香雲院清庵の3周忌を営むか。

E    延文2年(1357=正平12年)駿河国蒲原庄に龍雲寺を創建する(駿河龍雲寺記)。

 

 2)蒲原城発掘調査による出土遺物の年代分析結果

@     本曲輪の堀切り底より(すす)(まみ)れた灯明皿(土師質土器)、青花磁器小杯片と放射性炭素年代測定注)15による材齢が1410±10年の炭化木柱が一括して出土した。そして、これらは何者かが本曲輪より堀切りに投棄した状態であった。すなわち、堀切りに堆積していた土砂の層序に乱れがなく緩やかに長年月をかけて堆積していることから、本曲輪での人の生活痕跡を明確に残していることが分かる。そして、これらの遺物の投棄以前に本曲輪が堀切りによって分断され、(ぜん)福寺(ぷくじ)曲輪(くるわ)が築造注)16されたことになり蒲原城の創築と考えられる。

A     本曲輪の堀切り底より日本陶器の編年で窖窯(あなかま)Vb期、14世紀後半の南北朝後期に使用された山茶碗片注)17が出土しているため、14世紀後半の「観応(かんのう)擾乱(じょうらん)」以降に人が本曲輪で活動したことが分かる。

B     本曲輪より堀切りによって分断された善福寺曲輪より前述の山茶碗と同様の編年をもつ瀬戸窯産の灰釉(かいゆう)瓶子(へいし)注)18施釉土(しゆうは)師器(じき)碁笥底(ごけぞこ)注)19が、後世の開墾により天地返しされた土砂の下部(年代不明)より出土した。そして、前項と同様に善福寺曲輪で人の活動をみた。

以上のことから今川氏兼は、延文2年(1357=正平12年)に駿河国蒲原龍雲寺注)20を創建する前より関東の「観応の擾乱」が終息し、文和2年(1353=正平8年)921日の足利尊氏注)21が後光厳天皇を奉じて鎌倉より入京するまでの間に足利尊氏より蒲原荘を富士川以東の監視注)22(今川範国の進言により)のための料所として預けられ、蒲原郷に入部して蒲原城注)23に係りをもったと考えられる。 

 

3 今川氏兼から今川兵部少輔氏兼へ

 前稿で@今川氏兼が三河須美保政所職を預かった後の明確な事跡は、応安7年(1374=文中3年)7月の毛利元春軍忠状まで見ることができない。A『園太暦』観応2年(1351828日の条に「摂津の国大将、今川兵部少輔(中略)入洛」とある。これを尊卑分脈等による(中略)氏兼と考えるのが自然と述べたが、以下の理由により誤りであった。

(1)今川氏兼の応安7年(13747月までの明確な事跡として以下の3文書があり、京都、遠江、九州での事跡が明確になる。そしてその事により『難太平記』注)24に登場する越州直世や『一万首作者』の源氏兼の存在を裏付ける。

1)貞治3年(1364103日の『越後守奉書』注)25

父親である今川範国の名代として越後守である氏兼が発給した遠江守護代大浦氏に宛てた書下。

2)応安3年(137110月 『吉良満貞打渡状』注)26

吉良満貞が今川小弼入道に浜松庄嶋郷四分の一地頭職を打渡したもの。

3)応安7年(137223日 『大友親世書状写』

大友親世が田原下野守に宛てた書状で、今川氏兼が豊前の高畑城注)27を焼払った内容の文書。

(2)摂津の国大将、今川兵部少輔について

1)今川氏兼は観応2年(1351=正平6年)における年齢が22±1であり、幕府の中枢部の混乱に基づく貞和から観応年間の摂津守護・国大将の改替に対応できる可能性が低く、当時、足利尊氏党として但馬守護の改替に対応した今川頼貞(氏兼の従兄弟)の年代以上の人物と考えられる。

2)観応2年に今川氏の本流で兵部少輔という官職を拝領している人物はなく、庶流に7年後の延文3年(1358)足利義詮の将軍宣下注)28の行列に今川兵部大輔頼近なる人物がいる。官職から考えて同一人の可能性が高い。また、同行列に今川形部上野介頼貞、すなわち今川頼貞も参列していることから年代も合致する。

 

4 蒲原直世への改名と肥前蒲原氏の発生 

  蒲原氏兼が蒲原直世を名乗った明証は、以下に示す前出『多久諸家系図』注)29の高木系図に求められる。

         

   27代正宗 九州探題下向廿六年後改蒲原直世

高木佐渡守長政無子探題貞世三男右馬助言世養子后号高木伊豆守正宗

 

28代忠政 改高木以父實家蒲原為氏是様蒲原氏之始也

 

以上のことから次のことがわかる。

(1)九州探題に下向した蒲原氏兼が、兄である今川了俊の探題解任を機に名乗りを氏兼から直世へと改名した。

(2)今川了俊の三男右馬助言世が、高木佐渡守長政に子が無いために養子になり高木伊豆守正宗を名乗る。そして、その子である高木28代目より肥前蒲原氏の発生をみる。

 

5 今河越後守氏兼について

今川氏兼の官途が越後守であることは尊卑分脉等により知ることができる。また、それを裏付ける明確な史料として、今河越後守に係る永和2年(1376=天授2年)83日と思える以下に示す足利義満御内書案が2通ある。これは、九州探題今川了俊が幕府に出さしめたものであり、その後の九州関係の文書より今川氏兼であることは確実である。

 

(1)足利義満御内書案(祢寝文書)

   今河越後守事、留置日州之上者、属彼手、向後弥可致忠節也 

        83日        御自筆御判

日向国人中

 

(2)足利義満御内書案(祢寝文書)

         御判

 伊与入道事、雖召上、於日州者、国人以下加成敗、可致其沙汰候也 

83

今河越後守殿

 

そしてその事により、筑後国()(づま)庄八院村庄方の寶琳(ほりん)尼寺への遵行を命じた永和5年(137942日の『越後守書下案』注)30、それに対応した矢野道俊請文は、筑後国における今川氏兼の発給した『越後守書下』の存在を裏付ける。

 

6 今河越後守氏兼から今川讃州法珎・讃岐入道

前稿で日向の国で活躍した今河越後守氏兼が、兄今川了俊の九州探題解任に伴い帰京した後の事跡を現すものとして『改選諸家系図続編』の「今川系図」注)31に記されている官途讃岐守を証にして次の(1)に示す『法珎(ほうちん)書状』とした。しかし、この人物は今川氏兼でなく、探題分国の日向守護である今川氏兼の代官として事跡を残した息子の今川直忠であることが以下に示す日向関係の書状(3)『直忠書状』と(4)『直忠書状写』の花押が一致することにより判明した。

そして、そのことにより応永5年閏4月28日に足利義満より三寶院に係る命を受けた尾張守護今河讃岐入道、応永776日に足利義満より日向を領国として与えられた今川讃岐入道法世、応永135月今川了俊より『言塵集(ごんじんしゅう)』を授与され、翌年712日に伊達氏と駿河国入江庄を争った今川讃岐入道法世、清浄光寺にある時宗過去帳に記されている今川讃州法阿弥陀仏も今川直忠に比定される。

 

(1)『法珎書状』(大徳寺文書12 3104号)

  紫野塔頭如意庵領事、公方御寄進地云々、随當知行羽干今無相違候哉、自然寺家方代官方より、被仰子細侯者、毎事可被扶持申候此段高井にも可被仰候 恐々謹言

                (押紙)今川讃州  

九月三日                  法珎(花押)

入野形部少輔殿

 

この文書は、年次が欠けているが文中の高井に係る書状が次の(2)に示す文書であり、応永四年に発せられているので応永4年9月3日付けの書状と考えられる。そして、押紙で今川讃州とあるので法珎は今川氏である。

 

(2)『法珎書状案』(大徳寺文書12 3105号)

  紫野如意庵領破田事、別而此寺事扶持申子細候、於向後者京上夫才事やとい申書をも、可被斟酌候、あまりにあまりに難去被仰候間、如此申候、可被心得候、恐々謹言

応永四     

十一月廿二日                法珎 御判

高井河内入道殿

(奥書)

人夫役 今川殿御免状案  応永四年十一月廿二日

 

この文書は、前文書に係る高井河内入道に宛てた法珎の応永4年1122日付けの書状

案文であり、奥書に今川の記述があるので法珎は今川氏である。

 

(3)『直忠書状』(入来院家文書152号)

年首慶賀、自他雖申篭候、尚以不可有尽期候(中略)相良并嶋津又三郎以下凶徒、可打越當方之由、其聞候之間、用意最中候、然者其堺計策事、被差寄候者、三ヶ國對治不可廻時非候、早々可有談合候、此合戦打勝候者(中略)連々奉可申候、恐々謹言

   正月廿五日                 直忠(花押)

   渋谷佐馬助殿

 

この文書は、年次が欠けているが日向にいる今川直忠が薩摩の渋谷佐馬助に宛てた書状で「相良并嶋津又三郎以下凶徒」とあるので相良前頼が宮方になったのが元中2年(1385=至徳元年)1010日、島津又三郎が家を継いだのが嘉慶元年(1387)閏54日であるので嘉慶2年(1388=元中5年)以降の正月廿五日に発したものである。

 

(4)『直忠書状写』(垂水氏旧蔵伊東文書)

  如仰此間不申奉候、無心元候之處(中略)抑探題(今川了俊)薩州下向事、今度者子細候間、一身(直忠)被存候(中略)委細此僧可被仰候、事々期後信候、恐々謹言

    十月十日                  直忠(花押)

    大塚殿御返事           

 

7 今川氏兼の終焉

前稿で今川氏兼を今川讃州法珎・讃岐入道と比定し、先祖伝来の土地として伊達氏と入江庄を争い(中略)時宗過去帳に記帳されている今川讃州法阿弥陀仏を基に氏兼の終焉を藤沢とした。しかし、前述のように法珎は今川直忠注)32であるため誤りであった。そして、そのことにより『龍雲寺史』(蒲原町龍雲寺蔵)の「応永五年、氏兼公ノ長男蒲原越後守直忠公、父氏兼公菩提為当寺ヲ再建」の信憑性が高くなり、これに信をおくと今川氏兼の終焉は龍雲寺史による応永五年(1398)頃、70歳(±1)、蒲原庄になる。因みに、蒲原庄が今川泰範に宛行われたのが応永7年(1400)であるので応永五年頃には矛盾がない。

 

12 総 括

前稿は、今川氏兼の生誕を定点にして概ね120年間の史料を検索して結論めいたことにまで及んだが、氏兼の存在は確認できるが本人の発給文書を検出することができなかった。しかし本稿は、以下に示すように氏兼の誕生から終焉までの一連の事跡と本人の発給文書2通、息子の直忠の特定、蒲原城の創築など一定程度の成果が得られたと考えている。

 

元徳元年(1329±1       今川氏兼、九郎として生れる.

建武3年(13361011日  吉良満義、今川九郎に三河須美保政所職を給与する。

建武5年(13380407日  吉良貞義、今川九郎に今川・一色の田畠を宛行う。

南北朝後半期                     蒲原城の本曲輪堀切底よりこの時代に焼造された山茶碗片注)33、土器片が出土する。

堀切横の善福寺曲輪よりこの時代に焼造された灰釉瓶子片注)34、施釉土師器片注)35(碁笥底)が出土

延文元年(1356)        駿河興津の承元寺において父範国とともに祖母香雲院清庵の三回忌を催す。

延文2年(1357)        駿河蒲原庄に龍雲寺を創建か。

貞治3年(13641009日  越後守、遠江国細谷郷領家年貢に係る守護奉書注)36を大浦左衛門入道に下す。

応安3年(13701025日  吉良満貞、今川(氏兼)小弼入道注)37に浜松庄嶋郷四分の一地頭職を預ける。

応安4年(13711203日  小弼注)38として潮田を通り、武雄山凶徒を退治する。

応安6年(13730408日  霜台注)39として肥前所隈の陣へ発向する。

応安7年(13740123日  大将霜台注)40として豊前高畑城を攻める。

応安7年(13740925日  大将霜台、豊前高畑城を陥れる

応安7年(13741001日  霜台注)41筑後国八町嶋で今川了俊と合流する。

応安8年(13750126日  霜台注)42として豊前国守護の遵行を行う。

永和元年(13750522日  弾正小弼注)43として豊前国篠崎庄の地頭職を石清水八幡宮へ遵行。

永和元年(1375)末       小弼注)44豊前の野中郷司の城で大内義弘を迎える。

永和2年(13760803日  越後守注)45として日州の国人に係る御内書を受ける。

永和2年(13761008日  越後守注)46近日日州山東に下向する。

永和5年(13790402日  越後守注)47、筑後国三潴庄八院村庄方の寶琳尼寺への遵行を矢野新左衛門入道に命じる。

永和5年(13790410日  矢野道俊注)48越後守に上記の寶琳尼寺に係る請文を上申する。

永徳2年(13820122   今川直忠注)49、「今川了俊一座千句連歌第五・百韻」に十句詠む(大宰府天満宮所蔵)

0621日    今川直忠、日向で土持大塚宛ての書状を発す。

0621     今川直忠、日向で大塚宛ての書状を発す。

1010     今川直忠、日向で大塚宛ての書状を発す。

至徳4年(1387)          今川霜台として、日向大光寺で尊堂の13回忌(水島の陣で没した?)仏事を催す。

嘉慶2年(13880125

以降の年 0125   今川直忠、日向から渋谷左馬助に書状を発す。

康応元年(138903月       今川越後入道として、上京して足利義満の厳島詣でに随行する(鹿苑院殿厳島詣記)。

明徳2年(13910809日   今川了俊の日向国に係る施行状に今川播磨守(直忠か)の名が見える。

応永2年(13950816    蒲原(今川)氏兼、兄了俊と共に肥前を舟で離れるか。

応永3年(1396)        蒲原氏兼、直世と改名する(水江臣記高木系図)。

                 今川言世注)50、高木長政の養子となり正宗と名乗る(水江臣記高木系図)。

応永4年(13970903    今川讃州法珎(今川直忠)如意庵領についての書状を入野刑部少輔に送る。

応永4年(13971122日   今川讃州法珎(今川直忠)如意庵領についての書状を高井河内入道に送る。

応永5年(1398)         蒲原直世、蒲原庄で没する(龍雲寺記)

応永5年(1398)春        今川直忠、父氏兼の菩提為に龍雲寺を再建する(龍雲寺記)

応永5年(13980428 尾張守護今河讃岐入道(今川直忠)、足利義満より三寶院に係る命を受ける。

応永7年(140001月      足利義満、上杉憲定に今川了俊の討伐注)51を命ずる

0425日     蒲原荘園今川泰範に預けられる

0704日     今川了俊、降参する(青蓮院尊道親王行状)

0706      足利義満、今川讃岐入道法世(直忠)に日向を領国として与える

応永7年(1400)以降        蒲原城の本曲輪堀切底より鉄釉瓶子注)52、常滑窯の水瓶注)53片が出土

応永13140605      今川讃岐入道法世(直忠)今川了俊より『言塵集』を授与される。

応永1414070712   今川讃岐入道法世(直忠)、伊達氏と駿河国入江庄を争う。

応永16年(140909月     駿河守護今川泰範注)54没する

応永17年(1410±10年      蒲原城の本曲輪堀切底より炭化木柱注)55C14年代測定法)、中国磁器片(青花小杯)、素焼土器(灯明皿、煤付

着)が一括出土する。

応永18年(141105月     蒲原庄、岩清水八幡宮馬場末塔の勤行料所注)56に宛てられる。

応永 年               今川直忠が没し、清浄光寺にある時宗過去帳に今川讃州法阿弥陀仏と記される。



注)1

静岡県庵原郡蒲原町文化財調査報告書第2集『史跡蒲原城址

注)2

尊卑分脉所収「今川氏系図」、蠧簡集残篇所収「今川家系図」

注)3

高橋文書1「吉良満義打渡状」 静岡県史料五輯664頁 吉良満義は、今川氏兼の父範国とは従兄弟の関係にある。

注)4

高橋文書2「吉良貞義打渡状」静岡県史料五輯665頁 『難太平記』によると吉良貞義は、今川氏兼の父範国とは義理の親子。

注)5

高橋昌明「中世人の実像」(朝日新聞学芸部編『中世の光景』23頁)

注)6

洞院公賢 『園太暦』貞和2年正月条。

注)7

川添昭二 『今川了俊』27頁。

注)8

井上宗雄『中世歌壇史の研究・南北朝』605頁『一万首作者』(彰考館所蔵文書)。 

注)9

『水江臣記』(多久市郷土資料館所蔵)。

注)10

肥前姉川文書「式見兼綱軍忠状」(南北朝遺文)今川義範、山名某とは別ルートで参戦、九州での初出文書。

注)11

関西学院大学図書館所蔵文書「越後守奉書」

注)12

川添昭二「遠江・駿河守護今川範国事蹟稿」545

注)13

古簡雑纂五之六「沙彌奉書写」(神奈川県史料)

注)14

今川了俊『難太平記』620頁(群書類従巻第三百九十八所収)

注)15

山田 治「液体シンチレーションC14年代測定」前出『史跡蒲原城址』32頁

年輪年代法で定められた試材から求められた材令に修正した年輪絶対年代

注)16

本曲輪が堀切で分断され、善福寺曲輪が形成された時点を蒲原城創築とする。

注)17

井上喜久男「陶磁器の分析」(前出『史跡蒲原城址』16頁)

注)18

井上喜久男「陶磁器の分析」(前出『史跡蒲原城址』16頁)

注)19

灰釉瓶子の胎土より白くしっかりと焼締まり、見込みに釉薬の痕跡がのこる。

注)20

龍雲寺記によると延文2年に今川氏によって龍雲寺が創建されたと伝えている。

注)21

弟の直義を殺し、南朝の勢力を封じ込める。

注)22

「観応の擾乱」が終息した直後、今川範国は足利尊氏の執事のような地位にあり、過去にいくつも合戦があった蒲原庄を街道の守りのために尊氏に進言して息子の氏兼(後の蒲原氏兼)に拝領したと考えられる。

注)23

蒲原城の善福寺曲輪からこの時代に使われた灰釉瓶子片が出土しているため、今川氏兼が築城に係ったと考えられる。

注)24

今川了俊『難太平記』(群書類従巻第三百九十八所収)。

注)25

関西学院大学図書館所蔵文書「越後守奉書」

注)26

高橋文書3「.吉良満貞打渡状」(静岡県史料五輯665頁)

注)27

草野家所蔵田原文書「大友親世書状写」(南北朝遺文)

注)28

『宝篋院殿将軍宣下記』群書類従巻第四百五所収

注)29

文化11年に深江順房が編集した系図。

注)30

筑後浄土寺文書 山口隼正「南北朝期の筑後国守護について(下)」26頁においてもこの越後守を今川氏兼と比定している。

注)31

大阪府立中ノ島図書館所蔵「今川系図」

注)32

今川氏兼の息子であり後に今川讃岐入道法世を名乗る。

注)33

前出『史跡蒲原城址』68頁 図版6の下段

注)34

前出『史跡蒲原城址』68頁 図版6上段の右

注)35

前出『史跡蒲原城址』70頁 図版9の下段右

注)36

関西学院大学図書館所蔵文書 越後守奉書

注)37

高橋文書3「.吉良満貞打渡状」(静岡県史料五輯665頁)

注)38

肥前姉川文書「式見兼綱軍忠状」(南北朝遺文)

注)39

萩藩閥閲録「長井貞廣軍忠状写」(南北朝遺文)

注)40

豊後入江文書「田原氏能軍忠状」(南北朝遺文)

注)41

豊後入江文書「田原氏能軍忠状」(南北朝遺文)

注)42

豊前成恆文書「相良前頼代成恆仲申状」

注)43

岩清水文書「今川了俊施行状」京都大学所蔵

注)44

肥後阿蘇家文書「今川了俊書状写」(南北朝遺文)

注)45

大隈祢寝文書「足利義満御内書案」(祢寝文書)

注)46

大隈祢寝文書「野邊盛久書状」(祢寝文書)

注)47

筑後浄土寺文書(南北朝遺文)

注)48

筑後浄土寺文書(南北朝遺文)

注)49

今川氏兼の子息の直忠、日向で氏兼の代官を務める。

注)50

今川了俊の子息 今川言世の初出事跡

 

注)51

鎌倉公方を今川了俊が唆したと疑われる。

注)52

前出『史跡蒲原城址』69頁 図版7

注)53

前出『史跡蒲原城址』69頁 図版8の1

注)54

蒲原庄を幕府の料所として預かった今川泰範。

注)55

前出『史跡蒲原城址』67頁 図版3

注)56

今川泰範没後に再び岩清水八幡宮に蒲原庄がわたる(静岡県史6−706