蒲原城が築かれたのは明確ではないが今川氏により南北朝後半期以降(観応の擾乱以降)と考えらます。

そして、その後蒲原城の存在が以下の確かな史料に見えます。

1 今川(いまがわ)範忠判物写(のりただはんもつうつし) (国立公文書館 内閣文庫蔵 記録御用所古文書)

 「去九日其城蒲原一揆相圍」と始まる今川範忠が牟礼(むれ)但馬守(たじまのかみ)に宛てた感状で蒲原城の初見文書でその存在を明確に現している。

 感状であるため年欠の正月十一日の日付けとなっているが、今川範忠の発給した文書の前後関係から駿河守護相続に係る一揆と考えられるので永享六年(1434)のものと推定でき、この時期には蒲原城は今川氏の支城として活用されていたことがわかる。また、この時の痕跡と想定可能な1410年±10年の編年を持つ炭化木材が本曲輪堀切より昭和64年の発掘調査で出土している。

 

2 今川義元裁許状写 (国立公文書館 内閣文庫蔵 御感状之写并書翰)

 「代々雖為忠節借用之」と始まる今川義元が、天正廿年(1551)八月廿八日に由比左衛門尉に宛てた裁許状で「為蒲原在城旧借不可有返弁者他」と蒲原城の存在を明確に現している。そして、在地の勢力である由比氏が蒲原城での軍役などに係っていることがわかる。なお、由比氏は駿河今川初代範国・二代範氏の時代から影響を受けている在地の勢力であった。

 

3 北条氏印判状 (静岡市増善寺所蔵 北条氏政印判状)

 「就蒲原在城申付」と始まる北条氏の奉行が、布施佐渡守に宛てた永禄十二年(1569)七月十九日付の虎朱印が捺されて文書で蒲原城の存在を明確に現している正文。さらに、この文書は「彼廿人之者弓鐵炮致者を」とあり、来る武田氏との戦闘のために鉄砲衆を編成して対応する準備を命じている。そして、実際に十二月六日の戦闘で本曲輪(標高137.8m)にいる北条氏の鉄砲衆から善福寺曲輪(標高128.6m)にいる武田氏の兵に向けて発射され、的中しなく土中(標高128.4m)に撃ちこまれたようで、その当時の弾丸(鉛青銅製、直径11.5mm7.3g)と思われるものが約420年後の昭和64年の発掘調査で出土している。因みに、鉄砲が大量に使用されたのが天正三年(1575)の「長篠の戦」であるのでこの鉄砲衆の編成は、北条氏の戦への重要度を推し量れるほどのものであった。

 参考:駿河国蒲原城址発掘調査報告書 31・76頁 蒲原町教育委員会

 

4 武田信玄書状 (甲府市恵林寺所蔵 武田信玄書状)

 「就于蒲原落居 中略 抑去六日当城宿放火候」と始まる武田信玄が徳秀斎に宛てた書状で蒲原城の存在とを明確に現している。

 書状であるため年欠の十二月十日の日付けとなっているが、蒲原城が落城したのが永禄十二年(1569)十二月六日であるので其の四日後に武田信玄が発給した書状の正文であり、蒲原城攻略の様子を伝え、特に「当城宿放火」は蒲原城の「根古屋」の放火を意味しており、元禄三年(1690)調天保五年写替の田畠調元帳の字名にある「字祢こや」「字祢こや山きわ」「字若宮後」「字宮田」の一帯がこれにあたり、現在の蒲原城址の本曲輪の字名が「城山」でその下にある「若歌宮神社」を中心とした一帯が「根古屋」にあたると考えられる。また、「字若宮後」の右隣になる長栄寺山門横より中国景徳鎮窯焼造の染付片(本曲輪の堀切より出土したものと同種)が出土しているため「若宮後」と「長栄寺」の一帯は、城の館址である可能性が高い地域である。因みに、現在の長栄寺がこの地に移動したのが元禄12年(1699)の大津波による被害の後であることが長栄寺2世性海上人の元禄一四年三月十五日付けで本山へ送った古地図より明確になり、それ以前は東に妙立寺、西の泉竜寺に挟まれる蒲原城番の屋敷址で空き地であったと想定される。