0 はじめに
このホームページは、駿河国の蒲原城が今川氏兼によって延文年間(1356)頃に築かれた姿を発信し知見者の意見を求めるものであります。
1 蒲原城の築城
蒲原城の築城を記す古文書が発見されていないので正確な年代は判らない。しかし、蒲原城の善福寺曲輪より南北朝期後半以降(1350年以降)に使われていた灰釉瓶子の破片が出土しているのでこの時期に何者かが蒲原築城に係ったと考えられる。他方、確かな古文書として応永7年(1400)に足利義満が、駿河守護の今川泰範に蒲原庄を幕府の料所として与えたものがある。これによると蒲原庄は今川泰範に与える前に今川一族の誰かが料所として宛がわれていたことが文脈から読みとれる。ではこの今川一族の誰かというと今川範国を筆頭に以下の六名が挙げられ、没年から考えて蓋然性が一番高いのは今川氏兼。すなわち、後の蒲原直世で駿河蒲原氏の祖になった人物であり、蒲原築城に係ったと考えられる。
1今川範国 嘉元2年生れ 至徳元年(1384)に没す。
2)今川範氏 元亨頃生れ 貞治4年(1365)に没す。
3川貞世 嘉暦元年生れ 応永7年(1400)に足利義満より討伐の命が出され、応永21年没す。
4)今川氏兼 元徳元年生れ 応永5年(1398)頃に没す。
5)今川仲秋 出生不明 応永7年以降も京都で活躍する。
6)今川氏家 出生不明 応安元年(1368)頃に没す。
2 今川氏兼の蒲原庄入部
今川氏兼が、蒲原庄を拝領して実際に入部したのは何時かというと確かな史料はない。ただ、蒲原庄は街道の要衝となっているので「観応の擾乱」で南朝軍が一掃された文和元年(1352)以降と考えられ、兄の今川了俊の九州探題下向に同行した応安4年(1371)には既に蒲原を名乗っていたことが史料(水江臣記高木系図)で確認されているのでそれ以前となり、次の示す蒲原庄の周辺での出来事を考慮すると延文年間(1356)頃の蒲原庄入部となる。
1)観応二年(1351)蒲原川原で合戦が行なわれる。
2)観応二年(1351)尊氏軍、桜野で直義軍を破る。直義軍鎌倉へ敗走する。
3)延文元年(1356)今川範国、駿河興津承元寺(蒲原城の西約一里の位地)で母香雲院清庵の三回忌を催す。
4)延文二年(1357)今川氏により駿河蒲原庄に龍雲寺が創建される(蒲原龍雲寺史)。
5)蒲原城の善福寺曲輪で南北朝期後半の編年を持つ灰柚瓶子が使われる(発掘調査結果より)。
6)貞治三年(1364)今川氏兼、守護(今川範国)奉書を大浦左衛門入道に下す。